の2005年北京旅行記

 9月の17日から北京へ行って来ました。去年は2月に行ったので、一年半ぶりの北京です。初めて関空でなく、成田空港から飛び立ちました。到着は夜の九時ごろ。
羊肉串児を焼いているオヤジ 北京空港は、昔のベニア張りの北京空港と違って関空そっくり。観葉植物もあります。昔の中国には室内に植物などなかった。あってもニンニクとかもやしとか、自分で食べるために育てていた。空港出口付近にある銀行で三万ほど両替し、出ると出迎えが来ている。
 昔は民空しかなく、チケットも全部中国語だったが、今は英語で書かねばならず、どこに何が書いてあるか判らなくなったので、全部が旅行会社任せ。昔は、帰国時に自分でタクシーを予約せねばならず、大変だった。昔は舗装もされていない道路をアナポコにはまりながら何時間もかけて市内へ行ったが、今は高速道路になって市内まで十五分ぐらい。この空港高速が出来たのは、1994年頃と思う。
 夜の九時頃には護国寺賓館に到着。初めての旅館。去年はヒルトンホテルだったが、三元橋の近くで交通の便が悪く、タクシーでしか行動できなかった。とりあえず周辺の探索。護国寺中医医院があって、白人が歩いていた。護国寺賓館隣の隣にある食堂で、とりあえずビールと焼き鳥を注文。ビールは二元、焼き鳥は一串0.5元。日本真ん中が子宮の羊宝円にすると大瓶が30円、焼き鳥が7円というとこ。そこには肉串、肉筋、板筋、脆骨、鶏心、鶏珍、小腰、大腰、羊鞭、鶏翅、羊宝がある。肉串は羊肉串で判る。焼いているオヤジのところへ行くと、白くて細長いものを焼いている。オヤジに「いま焼いている物は何だ」と聞くと、羊鞭だという。「羊鞭とは何だ?」と聞くと、羊の鞭子だという。ようするに羊の陰茎のこと。昔は羊肉串しか売ってなかった。93年頃から羊腰、つまり腎臓を売るようになった。98年頃から焼き鳥を売るようになった。今は羊のチンコまで焼いて売っている。珍しいから食べてみようと思ったが、これが最後だったという。
 店に入ると、とりあえず0.5元の串を一本ずつ、おいしければ更に頼むことにした。脆骨は軟骨だと、だいたい想像できた。鶏珍は鶏内金、つまり砂肝だろう。肉筋や板筋はスジだろう。羊宝とは? オヤジに聞いてみると、そこにいる若い女のウエートレスに聞いてみろという。腰掛けている2~3人の姐ちゃんに聞いてみるが、彼女らは口を閉ざしたままニヤニヤ笑っているだけ。再びオッサンに「彼女らは教えてくれない。羊宝とは何だ?」と聞くと、羊の袋だという。ああ子袋かと思った。まったく彼らは、鞭とか袋とかワケの分からぬ言葉を使うので、理解するのが大変だ。陰茎と子宮だといえば、すぐ判るのに。肉串は昔と同じ味、鶏心と鶏珍、それに小腰が旨かった。羊宝はタコの頭を開いたような感じで、大きすぎた。オデンも売れていた。あれは何だと尋ねたが、名前を忘れてしまった。昔の北京には串ざしオデンがなかった。これも時代の流れである。クソして寝る。
 朝エサを食べた。まずい炒飯。粥なら食べられる。ジャガイモの千切りらしき物があった。食べてみたら塩辛かったので、これが粥に入れる鹹菜だと知る。とりあえず渡邊賢さんから頼まれた『朱子全書』二十七巻を買いに行かねばならなかったので、久しぶりに王府井にでも行くかということになる。
 地形がよく判らないので、前の通りでバス停を見て回る。111バスに見覚えがあった。たしか語言学院にいたとき、王府井に行くときに新街口から出ていたバ什刹海付近の胡同スだ。確か王府井を通るだろう。
 そのバスに乗り込んで、北海北門という車掌の声を聞くと、突然、什刹海が懐かしくなり、北門で下りてしまった。昔は露天商が道ばたに並んでいて、絵ハガキやドラエモンの漫画などを売っていたのだが、オリンピックのために露天商が撤去されたらしい。寂しいものだ。ついでに昔いた戯劇にでも寄って、小高にでも会ってくるかということになる。結婚すると言っていたが、ちゃんと結婚したのだろうか? 鼓楼行きの107に乗り換え、中医学院時代から通い詰めていた鼓楼の新華書店へ行く。懐かしい紅衛おばさんがいた。一時は、いなくなっていたのだが。場所が変わり、中医の本はともかく、鍼灸の本は隅に追いやられ、数も少なかった。昔は、東四の人民衛生出版社か、鼓楼の新華書店かというぐらい中医の本があったのに、今は隔世の感がある。これもまた寂しい。
 什刹海から流れ込んでいる新しくなった川沿いの道を行き、60㎝幅の路地を通って学校までの近道をする。昔は、黒っぽい灰色のレンガだったが、現在は白っぽい灰色ペンキを塗られて、ソーテックのコンピュータと同じ色をした壁になっている。昔は、そうした壁に「毛沢東万歳」などと赤いペンキで書かれていた。この辺の胡同や巷は、文化保護地区で、昔ながらの四合院が残っている。四合院の中心には、たいてい木が植わっているから、このあたりは緑が多い。連れの知り合いである穆童姐ちゃんも、このあたりの四合院に住んでいるはずだ。
 戯劇にゆくと正門が閉鎖され、西門だけが開いている。門番の姐ちゃんが二人いて、説明したけれど入れてくれない。一人は、じゃあ入れと言うが、もう一人鼓楼通りと戯劇を結ぶ路地が「そんなこと言って、なんかあったら責任取れるのか?」というので、入れて貰えない。そのうち中から職員が出てきて、彼らは卒業生だから入れろという。入ってみたが、小高の住んでいたところは閉鎖されており、行方不明になっていた。そこで校内を少し見て回り、門番に「いなかった」といって帰る。あのころ、よく昼飯を食った包子屋さんに行ってみようと思った。喫茶店ばかりで、包子屋さんがない。確か一斤3元で、半斤(250g)も食べ、ビールを一本も飲むと授業に出ていた。では朝鮮料理屋さんへ行こうとすると、そこの店もなくなっていた。しかたなく四合院の喫茶店へ入り、ビールを注文する。一杯が25元! バカ高! 普通は8~10元のものだ。
 ビールを飲んでツマミも食べたら、腹も膨れたので王府井へ行く。いつものように北兵馬司から104か103、108に乗って行く。そして協和医院の前から王府井書店まで歩く。昔は王府井の中をバスだけは通れた。協和医院の道が広くなってから、バスがそこを通って台基廠へ行くようになった。昔の金魚胡同は、泥が剥き出しで舗装もされておらず、道幅も2mぐらいだったが、1989年ぐらいに広くなり、王府井ホテルとか出来て、さらに校尉胡同も拡張された。バスが通るようになっては横町ではない。新東安市場の周囲も、ビルが取り壊されてしまっている。昔日の面影は、なくなってしまった。おかげで道に迷う。
 王府井書店は、昔は王府井新華書店だった。三階に屋上小屋が着いた建物で、土曜日に屋上の小屋にて本の半額セールをやっていた。92年頃から取り壊中央戯劇学院され、ながいこと外文書店に間借りしていた。それがマックの隣に王府井書店として復活したのは、2000年になってからのことと思う。それまでは西単にある図書大厦か、東四の人民衛生で本を買うことが多かった。十年ほど王府井書店がなかったが、その十年は寂しい限りだった。今は、本屋は大きくて本の量が多い程良く、東の王府井書店、西の図書大厦に食われている。昔は中国書店なども大きかったが、今回は悲惨な中国書店の末路を見た。
 王府井書店で、まず渡邊賢に頼まれていた本を探す。なにせ六階まであるので、どこを捜していいか判らない。とりあえず医学書コーナーを探していると、オバはんが「何を捜している」と聞いてくる。とっさに『朱子全書』と答えると、ここにはない、エスカレーター付近のパソコンで探せと言う。パソコンのスイッチは切れていた。そこで下へ行く。まったく渡邊賢の相手は大変だ。朱子の全集が、どうしても欲しいという。そんなものが、どうして欲しいのかっ!私なら朱子より、朱美のほうがよい。まあ、タデ食う虫も好きずきだ。人によって好みは様々だ。朱子でも、法子でも、直子でも、頼まれた写真集を買わねばならぬ。下の階に行くが、ウインドウズの画面が立ち上がっているだけ。どうやったらいいか説明を読んでいると、説明には「係員以外は触ってはいけない」とある。係員を呼びに行く。おばはんがインターネットエクスプローラーを立ち上げる。そんなところから入るとは、誰も思わないだろう。二階にあるらしい。
四合院カフェバー おばはんを捕まえて、朱子の本はあるかという。おばはんは「いるのか?」と聞いてくる。欲しいから聞いているのだ。男の係員が、本の上に登り、本棚の後からダンボール箱を引っぱり出してくる。それを開けて、中が揃っているか確かめる。足りない。半分しかない。するとオバハンは「このダンボールは、まだ下と書いたやつがあり、そこに残りはある」という。全部を確かめたあと「船で配達して欲しいんだが」という。オバハンは、すぐに「そんなこと出来るわけがない」と否定する。本を出してきた係員が、ちょっと待ってろ、一階に行って聞いてくるという。しばらくして戻ってくると「できるけど、本の半額の値段がいる」という。さっきのオバハンが「そんなこと、どうしてあるのだ!」と声を上げると、男は「外地から来た人が、郵送してくれと頼むからだ」という。外地というのは、北京以外に住む田舎人のことだ。本を持って観光は出来ないだろう。
 本を持たずに、係員が切った伝票だけを持ち、一階へ下りて1980元を払う。払った後で「郵送は?」と聞くと、ほら目の前という。そりゃあ、あんたからみれば目の前かもしれんが、私からすれば目の後ろだ。
 後のカウンターへ行って船便を頼むと、四枚の紙を出してきて、これに住所を書けと言う。四枚の薄い紙に、頼まれた住所を書くのは大変だった。カーボン紙ぐらい挟めよ。三万円しか持ってなかったので、連れに1000元を借りる。合計四萬五千円なり。この本は、日本では六~八万するという。恐らく朱子の無修正王府井小吃街でセミやサソリ、蚕や海馬を売る本に違いない。この男が一万五千円から三万五千円をケチるために、私はこんな麻煩な手続きをしなければならなかった。
 やっと終わった。腹も空いたので、小喫街(小吃街)へ入って飯を食うことにする。しかし、高い! 我々の近くの食堂より5倍も高い。おまけにセミのサナギ、ヒヨコ、生きたサソリなどを串に刺して売っている。サソリなどは串刺しにされたまま動いている。タツノオトシゴも串刺しにされている。もしかしてカイコのサナギもある。サナギは、たぶんそうだろうと思って聞くと、やはりセミとカイコだった。しかしカイコのサナギが、あんなにデカイものだとは思わなかった。ほとんど繭と同じ大きさだ。「食べるか」と聞いてくるので、イヤイヤと慌てて首を振る。すると「これを日本語では何という」と聞く。「この知了か?」と聞くと、そうだという。「日本では蝉(chan)という」と答えると、いや日本語でという。連れが「セミ」と答える。
 高いので結局買わず、モランボンへ行こうと思う。連れが朝鮮冷麺を食べたいという。88年頃に建ったモランボンの料理ビルは、昔と違ってすっかりサビれていた。昔は昼食時になると、店の前に行列が出来ていて、1時間近くも待たされたものだった。今は客もおたこやき屋。章魚はタコ。らず、店内の様子も変わっている。看板だけは昔のままだが、時の経過に洗われて古ぼけている。こんな店では入る気すら起きない。トイレ近くの朝鮮料理屋に入ることにした。昼食時だというのに、やはり誰も客がいない。天安門広場付近の客は、みんなマックに取られているのだろうか? 写真はタコヤキ屋。
 そのへんの路地を歩いてみる。ここは、まだ昔の建物が残っていると思ったら、やはり建物の壁にはマル拆マークが付いている。ここも長くはない。北京中医研究院の周りも取り壊され、今は高層ビルが建っている。細い路地ごと、建物が消えてしまった。あとに高層マンションが出来ている。
 路地の写真を撮っていると、腰掛けている爺さんが、あんたら日本人か?と聞いてきた。そうだと答えると、「この建物は日本人が造った。もうすぐ取り壊される」と話しかけてくる。17年前の北京が目に浮かんだ。現在は道が消え、建物が高層ビルとなり、もう自分がどこを歩いているのかすらも判らない。まるで自分が、故郷を失った人間のような気がする。私のいた当時は、建国門付近しか取り壊しされていなかった。それが外地の人間が来て、加速度的に取り壊しが始まった。昔は、人間がレンガとコンクリートを使って日本人が建てたというビル高層ビルを造っていた。今は巨大なコンクリートレンガをクレーンで吊り上げてビルが造られる。あっちこっちが更地。昔の趣のある建物が、どんどん壊されて行く。
 爺さんに呼び止められ、アア、ウウとか言っていると、周りの人が集まってきた。そして「こっちへ来い」という。そこに自転車のブレーキを修理している人がいた。その路地に連れてきた男が「彼は北京で最も下層階級の人間だ。仕事がなくて、こうして人の自転車を修理したり、手伝ったりして生活している」と、彼を指さして解説を始める。(日本で言えば、便利屋さんかな?)「彼の家に入って、写真を撮ってやれ」と言った。
 写真を撮って、モデル料を請求されてもかなわないので、言葉が判らないといった風を装い、男の話が終わるのを待って、黙って場を立ち去る。奥に行くと、一般の民家があって行き止まりだったので、やはりマル拆マークの付いた四階建て住宅を通ると、北京ホテルの裏通りへ出た。四階建て住宅は、17年前には陽台(ベランダ)の付いた文化住宅で、北京で高い建物といったら、それが最新鋭だった。現在では取り壊すべき対象。ほとんど残ってない。歩いていると旅行地図を買わされた。四元の定価だが、二元で売っている。買ってみたが、細かすぎてサッパリ判らない。地図に香山まで載っている。昔の地図は三環路までしか載っていなかったが、どんどん郊外から市が開発されるので、街が9倍以上に膨れ上がってしまった。1/9の地図を見たって、拡大鏡でもない限り判らない。あきらめて帰る。昔はいっぱいに描かれていた地図が、今は20㎝四方に納まっている。本を買ったため金もなくなったのでホテルに帰ることにする。111バスに乗ったが、どこで下りて壊される建物いいのか忘れてしまった。言葉も変わった。下りるときに「過了」という。昔は「換過来」と言った。途中下車して、乗り継いでホテルへ。今日の一日は、これで終わり。ホテルへ帰ったら、連れが李理に電話する。新しく結婚したらしい。日曜日は、ちょうど中秋節で、李理は来れないと言う。明日来るという。そこで昼飯を一緒に食うことにする。
 19日、ホテルの朝食を食べ、二万ほど両替する。きのう借りた1000元を返すと、幾らも残らない。一万円が700元。400元しか残らない。月曜日だから小高の勤め先に電話する。どうも服務部を換わって、総務部になっているらしい。以前なら昼間でも相手してくれたが、現在は夕方六時半でなければ出られないと言う。李理は休みを取って、我々のところへ来るらしい。
 連れが、ホテル前の小さな店で、ビールを買ったら3元だという。連れは、それを買って帰った。なぜ要らないと言わないんだと文句付けた。隣の食堂で2元のビールが、ビールを買って三元なワケがない。ちなみに護国寺中医医院の近くでは、一本が1.5元と言っていた。
 ビールを買って、ホテルで李理を待っていた。なかなか来ない。また待つ。さらに来ない。昼前になって、やっと来た。「えらく遅いなぁ」というと、西単でバスを下りた。そこで護国寺は、どこかと聞いたら、これを先に行ったところという。走って走って、また聞くと、この先に行ったところという。それでまた走っているうちに、こんなに遅くなったという。「へえ、西単から護国寺まで、三キロはあるだろう」。差不多!(これは、だいたいそんなものという意味)。まったく、いい加減なことを教えやがる。
路地奥にあった民家。クリック 李理が来たら、一番心配していた中国人の反日感情について尋ねてみた。そうしたら「小泉首相は、個人で参拝しているのだから、問題ないのではないか?」という。前日の夜には、テレビで中秋節と抗日戦争のことばかり報道している。なんでも廬溝橋事件から50周年記念だとか。
 恐らく我々に、気を使っているのだろう。首相は、個人で参拝しているのではなく、首相として参拝しているのだ。ヨーロッパで言えば、ドイツの首相がヒットラーの墓に参拝しているようなものだから、ユダヤ人の立場である彼らにとって不快なことに違いない。もっとも目出し帽をかぶり、サングラスをかけて参拝するならば、ダレにも小泉首相と見破れないので、個人の参拝と言えよう。あれだけテレビで顔が知られていれば、下手なスターより顔を隠さねばならない。
 どうやら世間的には、日中戦争のことなどどうでもいいらしい。それよりも日本のサッカーで負けるほうが嫌いなようだ。私のいた頃も、日中戦争よりも文革時代の後遺症のほうが大きかった。日本人を恨むより、中国人を憎んでいたような気がする。日本人に殺された人もいるだろうが、そうした人は皆高齢になっている。若い世代は、文革にて、自分の両親がひどい目にあっている。
 ちょっと北京の状況を聞いた。貧富の差が激しいらしい。そして売春婦が多いらしい。ディスコで客を拾っているという。ここの地下にもディスコがあるが、やはり売春婦が客を拾っているのかと聞くと、当然だという。
 まあいい。売春婦を買いに来たのではなく、本を買いに来たのだから。
 連れが李理に「昼食を一緒に食べよう」という。李理が何を食べたいと連れに聞くので、鍋という。私が「このクソ暑いのに、鍋か!」と言ったが、まあいい。私学校(戯劇)近くの路地は食べ物など、口に入りさえすれば何でも良かった。食べていると、しばらくして李理に電話がかかってきた。昔はポケベルだったが、今は誰でも携帯を持っている。でも写メールはないようだ。なんかかんか言っていたが、北京語なので聞き取れない。6割ぐらい判る程度だ。
 しばらくすると「済まない。今日は出勤の日で、午後は1時までに帰らなければならない」という。「えっ、休みを取ったんじゃないのか!」と言うと、休みは午前中まで、午後からは仕事だという。昨日は日曜日だから来れると思っていたが、中秋節で、嫁の両親のところへ行かねばならなかったと言う。日本でのお月見は、ただ家族で月を見るだけなのに、中国は何かと大変だ。みんなが月餅を送るので、食べきれないという。一週間も前から中秋節が始まるという。きのうやっと終わったという。テレビでは、月餅が多すぎて、チョコレート月餅などもあるようだが、もらって皆が困っているという。月餅というのは、餡入りのマンジュウだ。
 李理は、金を払うと帰っていった。70元もしている。以前は我々が払ったのに、今回は李理が払うようになった。彼は、我々が北京にいて、彼が毎日土鍋をつつきに来ていた頃が一番楽しかったという。昔のことを言うようになったら、人間はもう歳だ。
 それでは近くの図書大厦へ本を買いに行くことにする。22路のバスに乗る。今は北京市公共汽車と、北京巴士公司があるが、北京巴士のほうは2元、昔の屋根付近にカボチャのなっている家無軌電車は一元だ。
 一通り本を買うと、ホテルに戻って、小高に会いに行く。門で見ていたが、出てこない。パツキンと喋っていた。なんでもパツキンは、1987年頃に留学していたらしい。面識がない。そこで一昨日行った四合院へ行き、ピザを食べる。やはり反日のことが心配だ。聞いてみたが、別に何ともないという。でもニュースではヒドかったぞというと、日本人留学生は、怖がって外に出なかったという。では、食事はどうしたんだと聞くと、そのときや買い物の時は、外へ出ていたという。なんだ、いつもと変わらない。前から日本人は、食事と買い物以外では、滅多に外出しない。地安門の商場でも、食料品店で日本人に出逢うことはあったが、本屋とかで見かけたことはない。そして近況を聞いたり、久しぶりに会った日本人と、話すことはあまり変わらない。今頃は、戯劇の学生がブサイクになったというと、チャンツイーも戯劇の学生だという。そのかわり身体が大きくなった。舞台で目立つためだという。中国人の姐ちゃんも化粧するようになった。でも日本で生活していると、中国人より日本人のほうが美人に見える。朱に染まれば赤くなる。
 十時頃になり、暗くなったので帰った。今度は一緒に昼食を食べようということになった。宋冰に電話かけたけど繋がらない。十年前の電話番号だ。大屋の楊力に電話をかけたけど行方不明。携帯も同じ。張昊旭に電話しようとしたが、番号を持ってきてなかった。会うなら十五年ぶりだ。彼は貧乏人から金持ちにのし上がった男だが、忙しいだろう。第一回日本語弁論大会の優勝者、教えたのは私。
 ホテルに帰ると、隣の隣がDVD屋さんだった。近くなので、そこで映画を買ってみることにする。ビートたけしの座頭市があった。最強とある。だが主演はビトーたけしと書いてある。第60回ベネチア国際映画祭「監督賞」受賞。裏を見ると、もはや、敵なし。とある。主演、ビトたこし。オイオイ、ビトーたけしは、どこいっちゃったんだよぅ。
 北野武メビトーたけし。痛快至極、面白さ無限大のアクツヨシ・エソターティソメソト。とある。なるほど、なんだかよく判らないが、面白そうだ。あずみ12もあったが、韓国物になっている。あれは韓国物だったのか。台湾ではエロ物ばかりだったが、中国ではエロ物がほとんどなし。表面はエロ物そうな写真が描かれているが、中身は全く関係ない。
 セクハラは中国語で、性騒擾だと知った。ニュースを見て判った。そんなこと、昔の中国では、問題にならなかったのに。これも性危機とか、色んな言葉を経由して、こうした言葉になった。携帯も変遷して、手提に落ち着いたようだ。
 三日目の水曜日、ホテルで5万円ほど両替し、頼まれていた鍼を買いに行く。試しに価格を聞きに行く。東直門の中国中医研究院ならあるだろうと予想付けると、連れが地下鉄に乗ってみたいという。戯劇へ行くバスを調べたところ、護国寺から東直門へ向かうバスがあるので、バスのほうが手軽と思うが、しかたなく地下鉄に乗る。一番近いのは西単だが、西単からは環状線に乗り換えねばならないから、積水潭から乗ろうとする。ところが不思議なことに積水潭行きのバスがなかった。それでしかたなく西直門行きのバスに乗る。
 やはり十七年前と西直門は様変わりしていて、西直門外で下りたのだが、自分がどこにいるのか判らない。トラベルストーリーの地図を見ながら地下鉄を捜し、なんとか探し当てて乗った。で、東直門に出ると、中医研究院の看板が斜めに付いている。その方向には行けない。一帯が取り壊されて、壁になっているからだ。五年前から取り壊されたまま。これはどっちの方向だろうと、その看板の示す方向へ歩いて行くと十四条に出た。反対方向だと思い、引き返して東直門からやり直す。中医研究院の前は、すっかり舗装されていた。道路際にあった鍼灸道具を売っている商店は消えてしまったが、研究院側の商店は復活している。中に入って売店の向かいにレザー針などを売っている店があったがと思ったら、取り壊されている。取り壊されていると思ってショックだったが、もう少し行くと店があった。場所を忘れていたようだ。中に入って「電熱針はあるか?」と聞く。そりゃあ何だとの返事。「電熱針だ」というと、文字を書いてみろという。書くと、ないよ。何をするもんだ?と聞く。「電気流すと、針が暖かくなる」と答えると、パルス器を出してくる。「普通のパルス器ではない。鍼の尖端にニクロム線が仕込まれていて、通電すると尖端だけが熱くなるのだ」と答えると、これは特殊な鍼だと言って、太い鍼を出してくる。それは鍼体が熱の伝わりやすい合金で出来ていて、体内まで温度が伝わるのだという。ちょっと信じられない。
 結局、そんなものない。何で見たんだ。と聞くので、「本に書いてある」と答える。何を治療するんだというから、「乳癌とか」というと、そんなことありえない。乳アメリカザリガニの煮込み癌など悪性だ。そんなもの現代医学でも手を焼いている。鍼などで治るはずがないと言う。そこで乳癌を囲むようにして鍼を入れ、その鍼に通電して、鍼の中に仕込まれている発熱体を発熱させ、鍼を使って腫瘍を温めることにより、癌は増殖速度を速めるが、増殖に必要なエネルギー供給が追いつかなくなって死滅する。以前には内蒙古中医学院などで皮膚癌治療などに使われていた。『難病の鍼灸治療』にも載っている」と答える。南通医学院製のGZH熱針儀、雲南省鍼灸研究所と昆明西南儀器廠が共同開発したDRZ-1型電熱針機があり、江蘇科学技術出版社の『中国針灸器械学』、中医古籍出版社の『現代針灸器材与特殊療法』などの書籍に記載されている。売り子は、そんなもの上海でなければない。北京にはない。という。おまけに20万円もすると言いよった。そんなにするわけがない。せいぜい五万円だろう。鍼の尖端にニクロム線が仕込んであるだけの電気針機なんて、普通のパルス器より少し高い程度だろう。
 東直門を見て回り、鬼街、現在の東直門内で食事する。あっちこっちを見て回り、やっと人の多そうな一軒に入った。そこで一皿平均20元ぐらいの料理を食う。龍蝦を二匹注文したが、出てきたのは10匹。二匹だったがと文句言うと、二匹では少なすぎて作れないと言う。龍蝦とはアメリカザリガニのこと。現在では食用蛙も中国で食べるらしい。昔は田鶏という小さなカエルしか食用にしなかった。
 そこからバスに乗って王府井へ行く。先に東四の人民衛生出版社へ行くが、六時で閉店。頼まれていた漢日医学詞典を二冊買って、ちょっと針灸の本やらVCDをみに行ったが、すぐに閉店となる。中国では、現在はVCDなど稀で、もうDVDの世界になっている。進歩が激しい。そこで閉店時間の遅い王府井書店へ行くと、そこはそこで西単より本が多かった。中国では、各書店ごとに残っていた本があったり、売り切れてしまった本があるので、大きな書店に行きさえすれば、全ての本が手に入るというわけには行かない。先農壇にある人民衛生の印刷会社に行こうとも思ったが、遠すぎるので止めた。王府井付近の食堂は高いので、そろそろ帰ろうと思うが、三階の辞書売場で、日本語を喋る中国人に連れが捕まってしまった。喋っているうちに、連れは彼に日本人姐ちゃんを紹介することを約束してしまう。そして帰るバスに乗ったが、それは北海公園を通るバスだったが、後門でなく前門を通るバスだった。そこで下りて、バスを乗り継い学校近くの公衆トイレで帰ったが、やはりキチンとしたバス路線地図を買う必要がある。トラベルストーリーにはバス路線が書いてなかった。道で売っている交通地図にはバス路線が書いてあるのだが、小さすぎて読めない。旅行者には不便だ。
 毎日、脂っこい食事ばかりなので、腹が減らない。腹も出てきた。そこで沙鍋豆腐を主食にする。ホテルの真ん前の食堂で注文したが、湯豆腐のようで美味しくなかった。春雨が入っているので、結構満腹になる。だいたい一つ六元。マズイ店の名は、成都特色小吃だ。その二件となりにある餃子屋の沙鍋豆腐は美味かった。海米が効いている。海米は、干しエビのダシだ。沙鍋豆腐は、干しエビと生姜を少し炒め、そこに水を入れて豆腐と青梗菜、ハルサメを入れたあと土鍋で煮込んである。冷麺にも食べ飽きたら、お勧め。語言にいたときは、こればかり食べていた。
 翌日は小高と昼に会いに行く。まず北海北門で下りる。北海は、むかし清の時代に、南方から物資を運ぶために掘った運河のようなものだ。昔は南船北馬といって、北は陸路だけだったが、馬では量が運べないので運河を掘ったのだ。積水潭がその集積場だ。さらに故宮へ水を引くために池を掘ったのだ。前が南海、中が中海、この二つを一緒にして中南海と呼ぶが、そこは政府の要人が住むところで、外部から遮断されている。入れない。
 北海は、北海公園となっている。中海と繋がっているが、繋がった部分には鉄柵があって通れない。北海と繋がっているのが前海、俗に什刹海と呼ぶ。そこから北に向かって、後海、積水潭と繋がって、そうした人工の池を使って、故宮まで南方からの物資が運ばれた。什刹海では、提灯作りが盛んで、いまでも赤提灯を売っている。柵が出来て、地北海の中にある寝室(ベッドと琴)面は御影石で固められ、灯りが点いていて、昔の真っ暗だった什刹海が懐かしい。什刹海の露天に通った露地が残っていた。舗装されておらず、そこだけはエアコンの室外機がなければ昔のまま。車がアチコチにある。今では乗用車を汽車と呼ばず、轎車と呼ぶらしい。轎車は昔、皇帝などが乗ったオミコシのことを言う。北京人の頭も狂ってしまった。どうして上海方言を取り入れたのか? トイレも厠所ではなく、洗手間と呼ぶ。日本化している。
 北門から公園へ入るが、そこは前に来たことがなかった。池があって、茶を飲むあずま屋で熱帯魚のエサを売っている。それをやると鯉が寄ってきた。錦鯉もいた。
 あちこちと写真に写したが、白塔が修理中だった。修理中の写真も珍しいだろう。
 約束の十二時に間に合わなくなるので、残念ながら二時間ほどで北海を出て、戯劇に向かう。今度は覚えていて、門番の姐ちゃんが通してくれた。門番の姐ちゃんは、ガードマンのような青い制服を着ていて、お宝鑑定団の門を開ける姐ちゃんみたい。
 留学生楼の一階に行くと、小高が門番をしていた。そこの食堂で、昼食をごちそうして入れるという。小高はカードを持っていくと、レジで金を払ってカードに加えて貰い、それで食事をする。だいたい一人四元か五元。小高は人気者で、留学生の姐ちゃん達から北海公園声がかかる。そこで小高の結婚状態を聞いた。亭主の小賈は、もう学校にはいないという。小沢征爾が北京へ来ているので、その世話係をしているという。何でも金を貯めて、故郷の山西に五階建ての家を造り、それを売って稼いだという。それを元手に北京で家を買って、人に貸しているという。自分たちは、友達の家に住んでいるという。そうして小賈は、徐々に持ち家を増やしてゆくつもりらしい。もしかすると小高は、数年後にトンデモナイ金持ちになっているかも知れない。ただ山西は始末家が多く、水でも顔を洗った後で机を拭き、そのあと床を拭いて植物にやるという。そんな地方で育った小賈だから、小高と節約のことで、たびたび口げんかするという。
 小高は、小学校しか出ていないから高学歴に憧れているが、小賈の金儲けが上手いことを知って、結婚して本当に良かったと思っているようだ。
 結婚式の様子をDVDに収め、それを見てくれという。山西だから窰洞という洞窟に住んでいそうな気がするが、レンガ造りの建物に住んでいるようだ。ただ家族が長屋のように繋がっている。玄関は窰洞時代の名残か、門がアーチ型だ。花婿の小賈がネクタイを結ぼうとしているが、結んだことがないので、なかなか巧くゆかない。ネクタイを結んで貰うと、花婿の小賈は、オバさんのところにいる小高を迎えに山道を歩いて行くが、その間はプーヒャラ、プーヒャラと縦笛を吹く音楽隊が着いて行き、まるでチンドン屋だ。吹いているのはクラリネットだろう。途中に小学校らしき建物北海公園の公衆トイレがあるが、45度以上の急斜面を登って行かねばならない。下の道路に着くと、乗用車が3~4台待っていて、それに乗って山の下まで行く。乗用車は、赤い風船などで前が見えないほど飾り立てられている。
 音楽隊は、小高のいる山まで来ると、疲れたのか吹くのを止めてしまった。そして迎えに来るときに再び吹きだす。花婿は、赤と緑の布を、選挙の候補者のようにタスキ掛けにし、×印にして服に掛けている。まるで選挙演説だ。あれは何だと聞くと、あれは花嫁と自分の掛け布団を、このシルクで作るという象徴だという。
 小賈は、小高のところまでゆくと、玄関の前で出てくるのを待つ。小高はウエディングドレスに着替えているが、着替えるシーンまで撮影されている。ウエディングドレスを着ると、黒いサングラスを掛ける。山西なので、言葉は全く判らない。何か怒鳴っているようだ。黒いサングラスを掛ける意味は何だ?と聞いたが、その地方の習慣で、よく判らないと言う。赤いコーリャンなどでは、コンリーが顔に布を垂らして、顔を見せないようにしていたが、あれと同じ意味なのだろう。アラブの習慣なのかも知れない。
水道と温風器まである 小高が出て行くと、小賈がおぶって山道を下る。乗用車の待っている道路まで急斜面を下りると、花嫁を降ろして一緒に車に乗る。うしろは石炭を運ぶトラックがブーブーいって走っている。非常に危険だ。そして花嫁と花婿は、車の後に乗ったまま街の中を行進する。行列の車が多いほどいいという。急に結婚式の車が倍に増えた。休日なので、他にも結婚式を挙げて、街の中をパレードしているという。
 新郎の家に着くと、庭では調理師が雇われていて、垂れ幕を張って、庭で料理を作っている。前の日に、レンガで竈を作るのだという。そしてカラオケ大会が開かれていた。カラオケ大会は、前日から徹夜で行われているのだという。張り巡らされている垂れ幕は、日本のように紅白ではなく、カーテンのような普通の布。
 家に入ると、小高は飴を渡される。それを子供に投げるのだという。子供は、投げる前に飴を取ろうと、そっと忍び寄って飴に手を伸四合院の茶店で、高海雲ばして取って行く。小高は、油断も隙も作れない。
 飴がなくなると、男達が小高に寄ってきてホッペを抓る。あれは何をしているのだと聞くと、新郎の友達が来て、ホッペを抓りに来るのだという。とても痛いというのだ。変な習慣。それで終わり。小高は隣の玄関で、我々がDVDを見ている間はお仕事。
 小高と別れて、これは小高に紅包をやらなければならないということになった。文房具屋なら売れているだろうから、王府井の百貨大楼に行く。文房具売場が変わっていて、二階の電化製品を売っている場所に変わった。
 百貨大楼も変化が激しい。昔は創立者の銅像が前にあり、一階には食器やら水煙草の道具やらが売られていた。そして飴やら食料品が売られるようになり、何時の時代からか化粧品や装飾品が売られるようになった。一階は、その時代に何がよく売れるかを象徴しているので、時代の変化がよく判る。北京のデパートも、出来たり潰れたりしている。北京オリンピックのため、護国寺の付近でも、平屋の四合院が壊され続けていた。オリンピックが開かれる頃には、10階建て以上のビルが建っていることだろう。昔のようにレンガで高層ビルを建て、下から見上げると、上に行くに従ってカーブしているなどということがなく王皮胡同なった。レンガでは四階以上のビルが建たないようだ。横町が消えて、道路が広くなり、どこに自分が立っているのか判らず、いま浦島。言葉まで忘れていて、山西で石炭が採れるところだといわれても、石炭が何か判らなかった。連れが石炭だというので、煤炭が石炭だと判った。使わない日常用語は、だんだんと忘れて行き、難しい医学用語ばかり聞き取れるようになっている。
 時間がなくなったので、さっさと紅包を捜す。3元もする。日本で言えば、のし袋。中国では真っ赤っかなので、紅包という。安いのは一元。あまりに安いのは気がひけるので1.5元の紅包を買う。そこで次の目的である『鍼灸聚英』を買うことにする。だが、その前に北京の道や建物があまりにも変わってしまい、バス路線が全く判らなくなってしまった。そこでキチンとした地図を買うことにする。連れは「もう半分以上も日程が過ぎたのに、今さら地図を買うなんて」と止めたが、王府井書店へ行って、一階で地図を買うことにし大柵欄にあった壊された靴屋た。星球地図出版社の『北京人地図冊』25元を買った。いろいろと地図を見較べるなかで、これが一番バス路線が書いてあって実用的だった。さっそく東四からバスに乗る。東四のバス乗り場には、噴水があった。その噴水があるところも、昔は高台になっていて、いろいろな夜店が赤い裸電球をぶら下げて商売していた。2000年ぐらいに全てが取り壊され、しばらくトタン板に囲まれていたと思ったら高層ビル街になってしまい、長安街も広がってしまった。そこから前門行きのバスに乗り、大柵欄から瑠璃廠へ歩くことにする。
 ところで大柵欄は、タージャーランと読みたくなるし、標識にもdazhalanとフリガナが付けてある。ところが実際の読みは、ターシーラーdashilarと読む。17年前に紅艶に聞いて、初めて知った。
 この奥は、まだ胡同が残っていた。しかし勝手に道路にレンガを積み上げて造った小屋は、かなりの部分が消えていた。昔は勝手に家々がレンガを積んで道路に小屋を建てるので、人がやっと通れそうな場所まであったのだ。この近くにいると、時の流れを忘れる。だが、やはり取り壊された古いビルがあった。
大柵欄街 路傍の果物屋で、赤い毛の生えた果物を見つけた。「それは何だ」と聞くと、龍眼(ドラゴンアイ)だという。その端にあった茶色いのを指さして「じゃあ、これはなんだ!」と聞くと、それも龍眼だという。これが龍眼なら、それが龍眼なわけないじゃないかと言うと、それは普通の龍眼、こっちは南方の龍眼だという。その赤い羽根突きの球のような龍眼を買って歩きながら食べたが、半分ぐらいは腐っていた。
 見覚えのある瑠璃廠の東側に来た。歩いて行くと、いろいろと土産物屋がある。すると連れが茶を買うと言って、近くの茶屋に入った。お茶を振る舞って、店主が世間話を始める。こっちは中国書店が閉まってしまうのじゃないかと気が気でない。あんたは何をしているんだというので、中医をやっていると言う。すると爺さんが手を出して、中医なら脈を診て、どこが悪いか診断しろと言う。昔なら脈を診たが、今は鍼しかやっていないので脈を診ないと断った。だが爺さんは、連れにもっと茶を買わせようと、もう一杯出してくる。中国書店へ行って『鍼灸聚英』を買わないとならないから急いでいるというと、中国書店は何時でも開いているという。それを振り切って出掛けると、連れも渋々着いてきた。連れは方向音痴なのだ。
 中国書店は、天橋の袂にあると思い、ピンク色した天橋(横断陸橋)を捜すが、見あたらない。おかしい。去年の二月に来たときにはあった。前の通りで、中国書店を探すが、ない。そんな筈はない。地図を見ても中国書店は載っているのに、現実にない。今までは中医関学校近くの四合院カフェバー入り口係の書籍の多い、かなり大型の書店だった。医学書を3割引で売っていたりする。
 しかたがないから南新華街の通りを歩く。そっち側にも入り口がある筈だ。
 すると、横通りの入り口が見つかるには見つかった。しかし通りの様子がおかしい。なんとなく変だ。別扭だ。不順眼だ。でも、何とか本屋の入り口は見つかった。しかし狭い。
 中に入り、なつかしい木版印刷書籍が置いてあるコーナーへ行こうとした。しかし、ない。その隣にある割引本コーナーに行こうとしたが、そこにも一般の書籍が置いてあるだけ。これでは鼓楼の新華書店よりも、まだ狭い。客も、二~三人しかいない。
 うっ、変だ。これが中国書店なのか? と、なんとか糸綴じ本コーナーを見つけた。捜してみると、去年は三冊あったはずの『鍼灸聚英』が一冊しかない。そして『黄帝内経』も値上がりしているようだ。去年は五百元ぐらいだったと思う。『黄帝内経』も一冊しかないが、千元以上している。
 『鍼灸聚英』を開いて見ていると、店員がやってきた。連れが値引き交渉をする。「こんなに高くては買えない。安くしろ!」
 私は、去年来て、値引き交渉してみた。980元していたが、900元ぐらいしか手持ちがなかった。今村が金を貸してやろうと言ったのだが、金を借りるのは嫌なので、値引き交渉したがダメだった。こうした本は一元も値引きしないのだという。やはり店員は、負からないと言う。一年も待った本で、最後の一冊が残っていたのだから、その本は私の買われる運命だったのだろう。即座に本を買うと、書店に他の客がおらず、我々が出るのを待って閉めてしまった。結局、本屋にいた時間は十分もないのだか北海公園から見た一般人の家ら、もう少し遅ければ「明天再来」ということになるところだった。ここは変わっただろうと、一人の店員に尋ねると「何も変わっていない」という。そこで別の店員に「去年来たときは、こんなんじゃなかった。絶対に変わっている。だいたい店が前まであったじゃないか」というと、いつ頃来たかと聞く。去年の二月に来たというと、「今年、道路の拡張工事があって、それに引っかかって店が小さくなった」という。去年までの中国書店は、ロの字型をしており、中央に広い中庭があった。それが道路側の半分が削られて、コの字型になり、中庭を閉じるため壁を作ったのでロの字型になった。それで前と後が繋がらなくなったのだ。あれほどあった書籍は、どこに行ったのだろう。
 瑠璃廠でも、他の中国書店は無事だった。他の中国書店へも行ったのだが、二階へは上がれなかった。結局、ガックリして終わり。バスで帰ることにしたが、道が拡張したために、どこにバス停があるか判らない。師大附中から7路のバスに乗って帰ったが、どこで下りて良いのか判らない。バスに乗っているうちに暗くなってしまった。地図が見えない。一度下りて地図を確かめ、また7路バスに乗る。どうやら宝産胡同で下りればよいということが判った。幸い、よく放送する車掌だったので、宝産胡同が判った。車掌によっては黙っている。
四合院カフェの中庭 7路バスの通る道は、バス一台がやっと通るような道で、商店もなくて薄暗かった。バスから降りて、人が通る真っ暗な道を行く。灯りもない。しかし北方向に向かうので、引き返して南の胡同を行くことにした。やはり灯りもなくて真っ暗。どうやら両側の家は取り壊されるようで、人が住んでいる気配がない。たぶん我々が通ったのは、育徳胡同だったと思う。古い家が、どんどん壊されている。この一角も壊されて、高層ビルが建つのだろう。地下鉄事故のための半導体ライトを持っていたので、それで照らしながら真っ暗な横町を歩いた。50メートルも歩くと、車が通るとおりへ突然出た。護国寺ホテル前の道路だ。さっきバスを降りた趙登禹路とは、明るさも広さも、車の通り方も人通りも、まるで違っていた。山の中から急に開けた場所へ出た感じだ。昔の北京は、この取り壊された趙登禹路のように、あまり灯りもなく、たまに蛍光灯や裸電球がポツンとあるばかりだった。このような風景も、2008年には、なくなってしまうのだろう。  まあ、とにかく最後の『鍼灸聚英』が買えたので、良しとしよう。 
 あとは『中国針灸』のレザーディスクを読みとるためのソフト、「中文之星」か「四通利方」を買うばかりだ。「中文之星」は、日本で「日中の星」と呼ぶらしい。
中関村  木曜日は、ホテルで両替すると、フロントでパソコンソフト売っている場所を尋ねた。フロントは「中関村へ行け」という。中文之星は、書店でも買えるのだが1580元もする。少しでも値引きしてくれるところを捜していた。以前にあった建国門の電脳海は?と聞くと、もうないという。中関村は一度も行ったことがない。北京大学の裏手で、私が留学していた頃は、泥棒村と呼ばれており、自転車を盗まれたら中関村で売られていると言われていた。中関村は遠いので嫌だったが、しかたなく行ってみることにする。
 バスを見たら直通で中関村まで行くバスがあった。たぶん語言の近くを通るだろうと思っていた。太北平庄から牡丹園を通る。牡丹園とは、以前なら牡丹電子というテレビ会社があったところだ。昔なら舗装されていない小道を通って語言へ行ったが、道の中央分離帯が低い鉄柵で囲まれた花壇になっていた。だから花園路なのだが、現在は通るバスもない。学園路を通るのだが、航空大学はあるようだが、周囲の様子がまるで変わっていて、自分がどこにいるのか判らない。終点の一つ前で、中関村に着いた。そこでバス停前にある昔の市場のような建物に入ると、それが中古のパソコン売場だった。ソフトもいいけれど、もうパソコンが重くてしょうがないと思ったので、そこでパソコンを買うことにした。それなら中国ソフトを見れる。天井は蛍光灯が消され、ガラス天井からの太陽光線が厳しすぎて、青い布で覆われていた。省エネだ。明かりの両側にある黒い棒が、消されている蛍光灯。けっしてブラックライトではない。
パソコンのバタ屋市場 いろいろと交渉して、6.8ギガのノート型パソコンを買うことにした。千元ぐらいだったと思う。日本の中古パソコンが、中国で第二次品として売られている。デルは安くて、IBMは高いらしい。日本の中古が、キーボードを使い慣れていいので、それにXPを入れて貰った。そこでは盗版のパソコンソフトも売っているようだ。
 これで予定の1580円より安く済んで、パソコンを背負いながら建物を出た。これから帰りのバスを捜さねばならない。連れが「腹減った、腹減った」と騒いでいるが、どうやら中関村には、普通の食堂といったものがないらしい。ビルの地下街や上に食堂があり、我々の行くような食堂がない。仕方がないので、またバスに乗って護国寺まで帰ることにした。周囲の食堂で沙鍋豆腐を食べると、一件だけ美味しい店があったので、またそこで毛豆と沙鍋豆腐、ビールを飲む。毛豆とは枝豆だ。大豆は大豆か黄豆、小豆は紅豆、豌豆は豌豆、そら豆は蚕豆、インゲンは扁豆だ。豆の種類だけは判る。呼び方が変わっていない。新しい物だけ、呼び名が遷り変わる。
現在の什刹海と小高 ホテルで休憩して、夕方になったら小高のところへ紅包を持って行く。久しぶりに什刹海を見ることにした。周囲の路地は変わってない。車が増えた。昔は車など止まってなかった。
 戯劇へ着くと、門番の姐ちゃんが、すぐに通してくれた。受付に小高がいて、結婚式をVCDに焼いて待っていた。小高は、本当は高雲海というのだ。もう小ではなく、大になっている。我々は紅包を渡すと、小高はVCDをくれ、それから一緒に什刹海へ行くことにした。周囲の薄暗かった民家が、階段を付けて屋根を屋上にし、赤や青の電球をつけて、カクテルバーにしていた。連れが、その中の一つに入る。四合院喫茶店で、値段の高いことを知っていたので入りたくなかったのだが、連れが自分がおごるからどうしても入りたいという。そこで三人で入り、屋上から夜景を見ながらビールを飲んだ。そしていろいろと話しをしたが、小高は小学校しか出てないが、そのあと学校を受験したけど落ちたので、小学校しか出てないのだと知った。田舎の出身だと知っていたので、学校があることを知らなくて、子供のころから働いていたのだと思ってた。現在は、結婚相手が家を転売し、少しずつ家賃収入が手に入るらしい。私も「オリンピックまでは、什刹海と観光客を乗せた屋形船(昔はなかった)地価が上がるだろう。それから後は、どうなるか判らない」と言った。家を買いながら人に貸し、自分は友人のところへタダで住まわせて貰っているようだ。しかも外食はほとんどせず、いつもお弁当を持ってきているという。この間は我々が来たから学校の食堂で奢ってくれたが、それにしたって15元ぐらいだ。ビールを足して18元ぐらいだろう。連れが什刹海でビールを飲むのより安い。
 小高は学歴がない。今度から新しい責任者が来て、学歴で給料を決めることになったらしい。小賈は、そのために給料が2000元から1000元に下げられた。それで学校を辞めたらしい。2000元というと、約3万円だ。中国では土地のことを地皮という。日本で言えば地面だろう。もしかすると小高は、あとでトンデモナイ金持ちになり、日本へ来るかも知れない。日本の中華街にいる中国人は、南方人が多いというのも納得がゆく。それだけケチケチして使わないのなら、お金も出て行くところがない。一般的な中国人の反日感情も聞いたことだが、反日感情など全くないらしいことが判った。特に一般民衆は、日本人のことなどより日々の生活に追われているらしい。反日感情など『中国可以説不』とか、退屈な抗日戦争番組を見て什刹海周囲のバー(昔は真っ暗だった)いるようなインテリしかないのだろう。一般人は、そのために生活が苦しくなるとか、貧富の差が出来るとか言われ、そうかなと思って煽動されているだけだろう。 
 給料が2000元あるという現在の状況を聞いて、中国の経済状態も変わったなと思う。我々の頃は、学校の用務員の姐ちゃんなど60元ぐらいしか給料がなかった。上海旅行したときは、バスの車掌が自分の給料は60元しかない、どう思う?と聞いてきた。十年一昔と言うが、留学していたのは一昔以上前の話しだ。
 金曜日、朝食を食うと、小高にだけ紅包をやって、李理にやらないのは不公平だというので、新街口のスーパーに紅包を買いに行く。そこの店員にトイレを聞くと、店の外にあるという。未だに店にトイレがないのかといぶかりつつ、食料品しか置いてないので、文具屋さんを聞く。やはり出てすぐ左という。隣が文具屋さんで、その前に公共トイレがあった。公衆便所と呼べるようなキタナイ便所は、現在は消えてしまっている。それでも四合院の残る戯劇付近は、トイレや風呂のない家が多く、公共トイレがアチコチにある。昔は、ただの四角い穴をコンクリートにあけただけの、金隠しも何もないトイレで、小便するところはレンガ塀什刹海周辺の下に溝があるだけの代物だった。まさにキタナイ、ションベンが床に溜まった、「厠所」と呼ぶに相応しい場所だった。夜に行けば電気すらない。知らない旅行者が行けば、ウンコ穴に片足を突っ込んでしまいそうだ。だから勝手を知ったトイレでなければ、真っ暗ななかでどんな目に遭うか判らない。厠所とは、そうしたスリルとサスペンスに満ちあふれた場所だったのだ。現在の洗手間は、電気が点いている代わりに、ションベンの水たまりに足を突っ込むといった、心臓のドキドキするような興奮がない。そのような危険に満ちたトイレは、昔は厠所だけでなく「一号」などとも呼ばれていた。28号なら鉄人だ。第二次世界大戦に作られた秘密兵器が鉄人28号なのだ。なぜ一つしかない試作品なのに28号なのか? それはトイレがウンコとシッコという二つの機能を備えているのに関わらず、1号楼と呼ばれていたのと同じような響きがあるからなのだろう。授業中にトイレへ行くときも、私は同級生の山野のように「去一号」とか「解手」など、あいまいな言葉は使わなかった。礼儀正しい私は、そうしたときの彼に「慢慢拉屎吧」とか「慢慢撒尿吧」などと挨拶を返していた。この「拉屎(ラッシー)」と「撒尿(サニョウ)」という二語だけ覚えておきさえすれば、厠所が一号楼になろうが、衛生間になろうが、ケバケバしくなった什刹海周辺洗手間になろうが問題が起きません。美しい言葉ではありませんか。日本人なら、これからは「拉屎」と「撒尿」という上品な言葉を使ってトイレを捜しましょう。本格的な発音をしようとするなら「ラーシー」、シーは反り舌音で、舌先を軟口蓋にくっつけるのがポイントです。そして「サーニャォ」は、ネコのようにニャォと言うのです。さあ、ご一緒に「拉屎」「撒尿」。これであなたは、もう中国でトイレに困ることはありません。
 紅包を買うと、李理のところへ行き、中文之星の片が付いたことを知らせようとした。 きのう小高のところから帰ったとき電話したのだが、急に下痢が始まったらしく、30秒も話ししていると「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」というような調子で、話しにならない。今日はどうかと電話をかけると、治まったという。
 広安門医院へ行くことにしたが、どうやら広安門行きの直通バスがあるらしい。それに乗って出掛けると、たまたま広安門のバス停で止まった。その次で下りる予定だったが、広安門という名前を聞いて、思わず下りてしまった。そこから遠くない距離にあった。だがレンガ造りの広安門医院は、真っ白な鉄筋コンクリートビルに建て変わってしまっていた。
広安門医院 医院というと小さな診療所のようなイメージがあるが、中国では大病院が医院であり、十階建てのような棟が連なっている。協和病院も協和医院だ。たぶん病院というと病源と間違うからではないかと思う。
 聞いていた向かいの大楼へ入り、エレベーターで8階に上る。どこか判らないが、適当に角を回って歩いていたら、声を聞きつけて李理がドアを開けた。病理科ではない。
 科長が交通事故で死んだため、李理が急に責任者の科長になってしまった。だから病理科では一番えらい。とはいっても一人しかいなかった。嫁さんは、花屋さんに務めていると今村に聞いていたが、本人は「それ何の話し?」という。花屋さんでなくて、ゴルフ場や公園などの芝生を売る仕事をしているという。まったく今村の中国語能力も、あてにならない。どうして芝生売ってるものが、鮮花売りになるのだ? おかげで李理の嫁さんは、えらい美人だと勘違いしてしまった。中国には、たいてい現在は飲料水供給機があり、そこから水と熱湯が出るようになっている。ブリキの魔法瓶が懐かしい。だが、中の水がほとんど空になっていた。なんだか良質のお茶を茶缶から出してきた。底に残っている僅かな茶葉だ。そして少なくなった水で茶を入れてくれる。中文之星について話すと、「あんなソフトはタダで配布している」と言って、何二年時同級生の李理か検索した。すると沢山出てきた。「これは違法じゃないのか」というと、違法かもしれんが、こうした違法ソフトは、ほとんどアメリカ人がアップしている。でなければ、どうして中国でインターネットを使って見れる?と聞く。それから中国語をピンインの頭文字だけで打ち込めるソフトも持っていた。今の中国人は、みんなこれを使うという。「そりゃあ便利だ。そんな便利なソフト、日本にはない」というと、送ってやるという。日本で開いたところ「これはウイルスが入っていたので消去しました」とのことで、ソフト入りメールは受け取れなかった。これからはディスクを持っていこう。
 中国でも北京堂ホームページは見れた。現在の中国の平仮名文字は、質がよくなったのか、とても綺麗だ。そして200元入りの紅包を渡したが、小高の旦那が2000元の給料を貰っていたのに、李理に200は少ないかなとも思った。だが再婚だから、それでいいだろう。
 李理が昼飯を食いに行こうという。この周りに沢山あると聞いてきたので期待したが、バス停からさっき歩いてきたところで、その一帯は壊されており、しばらく行くと韓国料理屋があった。李理は、韓国人も日本人も同じと考えているのだろう。その店は、従業員の姐ちゃんたちが、みんな派手めのチョゴリを着ており、どうやら韓国語で挨拶してくる。当然にして、何を言っているのか判らない。日本でレアもののウシ舌があった。御飯はステンレスの丸い弁当箱に入っている。えらく高そうな店だと思ったが、李理が清算した。 割引優待カードを持っていたが、一割引となっても200元だった。李理は一時から仕事だといって、ビールを一杯だけ飲んだ。この近くに観光地があるかと聞紅楼夢のオカマ人形くと、大観園があるという。映画のセット村だ。上海の大観園には行ったことがあるが、直径が1キロ以上あろうかという巨大な公園だった。北京のセット村は小さそうだ。上海の1/6ぐらいだと思う。こうした映画村があったということは、このあたりは何もなかったということを意味している。バスで5駅ほどで大観園に着いた。1988年当時に話題をよんだ紅楼夢の撮影場所だ。上海のは後で作られたのだろう。当時の中国では、女が男装することはあっても、男が女装することはなかったからだ。日本よりだいぶん遅れている。日本で言えば、「オカマ物語」。
 30元払って入った。高い券なので、立体映画の券も含まれている。上海の時は、女優さんがいて、映画のワンシーンを再現してくれたから面白かったが、こっちの大観園はマネキンが置いてあるだけだから却って不気味だ。映画の時間を見ると、4時半からだった。四時半までブラブラして、それから山の入り口へ行き、地下へ入る。眼鏡を掛けさせられて、変な椅子に座ると、その椅子が画面に合わせて動く。途中で雪まで降ってくる。
 眼鏡で気分が悪いのと、椅子が動いて気分が悪いので、すっかり気分が悪くなってしまった。十三庫ダムの恐竜映画館へ行ったときのようだ。あのときは若かったので気分が悪くならずに済んだ。
 出てから、またブラブラしていると、連れが、またビールが飲みたくなった。それで買いに行ったが、一向に帰ってこない。子供が三人やって来た。池に浮かん紅楼夢撮影用の大観園だ落葉を広い、船が浮かんでいるようだとかいいながら、しばらく遊んで去っていった。従業員の子供だろう。この中に従業員が住んでいるアパートがあるようだ。閉鎖中の場所など、子供が番をしている。
 いい加減にしろと思い、行ってみる。すると小さな売場のオッサンと争っている。どうしたんだと聞くと「最初はビールを六元だといった。まあ、観光地価格だからしょうがないと思ったが、急に16元だと言い始める。それで争っているのだ」という。じゃあ、要らないと言って金を返して貰えといった。
 するとオッサンは、もうビールの栓を抜いてしまったので、返すことは出来ない。これはどうするのだという。「誰が栓を抜いた?」と言うと、「だってビールくれと言うから」という。そこで「栓を抜いてくれと頼んだか?」と聞く。「飲むと言うから」という。「じゃあ、あんたが飲めよ」というと、判った判った、六元でいいという。六元でも高すぎる。1.5元で売っているところもあるというビールだ。
 連れに「あんたが大口開けて、バカみたいにワーワーやっているから、こいつはアホだと思われて被宰されるんだ」と言った。試しに私が別の売店でビールを買ってみると、よく冷えた、より銘柄のいいビールが5元だった。ちゃんと飲む椅子もテーブルもある。アホの連れが買ったより、はるかにまし。
紅楼夢時代にもエアコンの室外機だけはあった まず中国で品物を買うには、最初に値段を聞かねばならない。それから買うなり、いらないと言うなりしなければならない。値段を聞いて、高いと思ったら止めるべきだ。
 昔、西直門の地下鉄駅前で、コーラを十元で売っていた。語言の留学生が下りるので、法外な値段を吹っかけているのだ。中国人が知らずに買って、栓を抜いたコーラをどうするのか見ていると、「あんたが飲め」という。店主は黙ってコーラを飲み、その中国人は金を払わず去っていった。なるほど、こうすればいいのかと思った。開けられたら、あんたが使えといえばいいのだ。これで借りを返した。
 大観園は中に動物園があった。もっているオールマィティ券では入れないと言う。「何がいるんだ」と聞くと、孔雀に梅花鹿、何とか猿と答える。そこで五元を新たに払って、竹垣で囲まれた動物園へ入ると、猿の餌やクジャクの餌、梅花鹿の餌などを売っていた。クジャクの餌は、枯れたようなチンゲンサイ、鹿の餌は枯れたような人参、あと豆類などがあったが、豆類だけは一元でなく、三元だったので止めた。
実は北海の写真 クジャクや白いクジャクなどが沢山いる。でも、クジャクが羽を広げてみせるようなことなどなかった。あちこちにクジャクの糞が落ちていて、こっちがチンゲンサイの葉っぱを与える前に、クジャクがやってきて葉っぱを盗み取ろうとする。竹で出来た鳥居のようなものの上に、クジャクが沢山いるものだから、こっちは糞を落とされるのが恐くって、鳥居を見上げながら歩く。するとクジャクの糞を踏んでしまった。クジャクの糞は、馬糞のような感じだった。端まで歩くと、今は閉じられたらしき門がある。そこまで行くと、クジャクばかりで、猿も鹿もいないじゃないかと思う。反対側の出口付近に、白ヤギがいた。人参を見て興奮している。やると奪うようにして食べる。何を常食にしているかというと、トウモロコシの皮らしい。クジャクは放し飼いにしてあるので、クジャクにばかり気を取られていたが、壁側に沿って歩いてみると梅花鹿がいた。他にも何種類か鹿がいた。四不象はいなかった。他の鹿は、角を切られているが、人参を見て興奮している。やはりトウモロコシの皮しか与えられていない。少し戻ると猿がいた。説明を見ると、猿の檻に指を突っ込まないことと書いてある。そこで人参を突っ込んでやると、もう六時頃になっていた。大観園は夜間にも開園しているようだが、動物園は終いらしい。出る頃には、動物園の門が閉まっていた。我々の旅行も、明日で終わり。カメラの電源も切れてしまったし、もう帰ることにした。やはり広安門まで戻り、そこからバスを捜したが、なかなかない。そのあたりでは、護国寺中医医院と同じように、やはり寿衣を売っている大観園の溝と従業員のアパート。綺麗な服で、結構安いのだが、李理に「寿衣とは何だ?」と聞くと、死人の着る服だという。連れに「社長のお土産に、一着買って帰ったらどうだ。きっと喜んで着るぞ!」と言った。じゃあ、そこの看板に書いてあった「一条龍服務」とは?と聞くと、最初から最後まで葬儀の面倒を一切引き受けますということと答える。なるほど寿衣売り屋さんとは、日本で言う葬儀屋さんだ。やはり中国人の友達がいると、色々聞けて便利だ。なかには喋りすぎて閉口する知り合いもいるが、そういう人には連絡を取らない。 なるほど、病院の前には死に装束売場がある。中国は合理的だ。昔は派手な「死に服」など売ってなかった。みんな人民服を着て棺桶に入ったものだ。だんだんと中国も、台湾のキョンシー映画の世界に似てくる。香港が返還されて、果たして中国にとって良かったのだろうか?
 やはり牛街からバスに乗ろうとしたが、帰りのバスはなかなか来なかった。そこで王府井行きのバスに乗ったが、何故か途中の西単を過ぎたところまで来ると、このバスは、あと二駅しか行きませんという。どういう意味なんだ?王府井行きのバスではないのか?と思ったが、やはり商場を二つぐらい過ぎたところで、乗客が全員下りてしまった。それで我々も下りることにする。降りた乗客は、やはり乗り継ぎのバスを待っていた。そこで商場まで引き返し、帰国したときのお土産を買うことにする。ついでに薬屋へ行き、電熱針を捜したが、やはり店員は知らなかった。そこで複方丹参片を買う。一箱8.8元、聞くところによると、日本では3000~5000円もするらしい。十箱買ってお土産にする。頼まれものだ。商場のデパ地下で、連れは食料品を捜す。どうも私が一緒に来る相手は、食い物が一番重要らしい。良い品物がなかったらしく、不実は北海公園満を言いながら帰った。そこで731部隊女体実験というDVDを買った。弟子が見せてくれとせがむが、あんたが期待するようなものではないよという。中国では、エロモノはデパートの地下になど売れてない。反日感情を煽るような代物に決まっている。店員が「これには上下がある」といって探し出して売りつけられたのだが、上に入っていたものと下に入っていたものは同じだった。中身はどちらも下巻だけ。だからイキナリ話しが始まる。何がなんでか判らないうちに終了。
  「パッケージの写真と中身は違う」と弟子に言ってきたが、上下が違うとは知らならなった。こうして夜は、荷物を積めて、明日の早朝に備える。前々から行きたかった、護国寺中医医院の角にある四川風味の食堂に入ろうとする。来客に金のなさそうな若い姐ちゃんが多かったので、きっと安くて美味い店だと思う。オデン店だった。入り口に串に刺した野菜やイカがあり、それを選んで籠に入れ、それを持っていって金を払う。するとオデンの汁で、煮てくれるのだ。ここのはゴマダレが入っていたので、普通のオデン屋より美味かった。両側を美容院と理容院に夾まれた店だった。やはり地元の若い姐ちゃんが集まる店というのは、安くて美味い。重慶特色小吃店と書いてある。嘘に決まっている。台湾から渡ったオデンに、八角を弱め、上に羊肉に使われる調料をかけたものだった。南方人は八角が好きだが、北京人は嫌いだ。昔から八角の使われた料理など、食べたことがない。知り合いの四川と重慶の夫婦だけが、よく肉料理に八角を使っている。でも、その調料のおかげで美味しかった。やはり若い姐ちゃんの多い店は、安くて美味い。部屋に帰るホテルで、白人のオッサンが、売春婦の姐ちゃんを連れてエレベーターに乗ってきた。靴が壊れたというと、明日買ってあげるよとかオッサンが言っている。最後の夜は、うちの隣部屋が売春婦を買っていた。テレビを見ていると、イキナリ枕元の壁がドンドンドンと振動し、アッアッアッと売春婦の姐ちゃんの声が聞こえてきた。あまりに声が大きいので、おもわず売春婦の姐ちゃんを買ってみたくはなる。どうやら日本のAVの影響で、中国の売春婦は声を上げることを覚えたらしい。それによって売春婦の姐ちゃんは、新たな客を獲得でき、また男を興奮させて早く終わらせることによって、一晩で何度でも稼げるというわけだ。昔のように静かな売春婦の姐ちゃんはいなくなったようだ。昔の売春婦は騒がなかったので、「ああ、売春婦の姐ちゃんがいるわ」ぐらいだった。それに美人で、モデルっぽかった。今は150㎝ぐらいの小さな姐ちゃんで、美人というより、そこそこ可愛い。その二人は、いつも朝食をホテルで摂っていたので、女子学生二人の観光客かなと思っていた。でも地道の北京語だし、訛がないので変だなと思っていた。その二人は、いつもホテルの地下ディスコで客を捜していたのだろう。怪不得、原来如此。でも、最後の日にやって来た日本人女子学生も、一見すると中国の売春姐ちゃんかと間違えた。日本語を話していたので、違うと判ったのだが。たぶん白人は、我々と違って夜間は暇なんだろう。護国寺賓館は、ほんとうに売春婦が多くて、夜になるとアッアッアッのうるさいホテルだった。こんな姐ちゃんの声に溢れたホテルに泊まったのは初めてだった。もしかすると防音が悪いのかも知れない。
 北京空港では、サンザンだった。まず本が重すぎて重量超過し、2000元払わされたが、ドルか人民元でないとダメとのことで、初めてカードを使った。カードを持って行っておいて良かった。そして搭乗券と荷物の切符を間違えたために、最後に回されて検査をされた。荷物検査を一人だけされて、カメラを落とされた。30cmぐらいの高さだけど。これは何だと聞くので、カメラだといった。今頃は中国でもデジカメだ。動かないと言うので「没電だ」という。電池が切れている。そして金属探知器を持ったお姐が、足拭きマットのようなものの上を指さす。そこに乗れという意味なのだろう。そこに乗ると、靴を脱げという。靴を脱いで乗ると、金属探知器を当てたあと、いきなり「まわる」という。  なんて言った?今。  すると中国語で「回れ」という。こっちは中国人に日本語使われるという状況になれてないのだ。急に短い日本語を言われたって、判るわけがない。こんどは「転過来は、日本語でどういうのだ」と聞いてくる。すると、さっき言ったのは日本語で「まわる」と言ったのか? キチンとした日本語を教えなければと思い「まわってください」と言った。すると姐ちゃんは、まわってください、まわってくださいと繰り返している。とうぜんにして通過。だが、止められたうえにカメラまで落とされ、重量超過で罰金まで払わされて不幸が続く。禍不単行だ。だが、前にネパール人が検疫を受けて清掃車いたとき、何となしに「あっ、タリバン」と言ったときの騒ぎに較べたら可愛いものだ。あのときは飛行機が一時間遅れた。脚上的疱、都是自己走的。自業自得ですね。
 こうして無事に中国旅行は終わり。最後の成田空港で、税関を通るときに、連れが「海賊版は、違法だと書いてある」という。攤子でなく、キチンとした店で買ってきたのだから、たとえ海賊版のDVDが混じっていたにせよ、こちらは知る由もない。ここで税関が、その声を聞きつけて「海賊版を持っているだろう」と因縁付けてきたら大変だ。前にも全部開けさせられたが、あとで閉めるのが大変だった。ときどきフッと、人を陥れるようなことを叫ぶ。恐ろしい連れだ。自分の買ったDVDのほうが、海賊版ぽいのが多いはずだ。でもエロモノを持ってないので、他のものでは海賊版かどうか判らないだろう。海賊版も何種類かあるようだ。チャングなどは、大きな箱入りのを買ったが、薄いやつも何冊かに別れて売っていた。
 こうして一週間の中国旅行は終わり。 
   なお私が2005年に使った『北京人地図冊』は、北京へ行ってバスを利用しようと思う人に譲ります。定価25元です。大きなバス路線が書いてあり、観光地や病院など、様々な情報が書いてあって便利です。一冊のみなので、欲しい人は郵便番号と住所、そして送料500円を口座番号00140-5-297911、加入者名は淺野周まで送ってください。来年になったら1月に新しいものが発売されると思います。モノは昭文社『北京トラベルストーリー』1200円と、星球地図出版社編『北京人地図冊』25元の二冊です。もう今年は北京に行かないので、送料だけ負担して貰えば譲ります。『北京人地図冊』は、取りに来られたので、もうありません。『北京トラベルストーリー』だけになりました。

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