鍼灸の歴史
  鍼灸の起源が、中国の教科書では「人が山野を駆けまわって狩りしていた頃、偶然に膿んだ部分へイバラのトゲが刺さり、排膿されて楽になったため、故意に傷付けるようになったもの」とされています。しかし北アルプスでアイスマンが発見されたときには、刺青が鍼の起源だろうと言われました。
 最初の鍼灸は、石鍼でした。そして骨鍼や竹鍼が登場し、最後に青銅で鍼が作られるようになりました。また蛭を使って膿血を吸わせるなどの治療法が現在も残っていることから考えて、やはり膿を出して楽にすることが起源だったと考えられます。春秋時代に書かれたという『黄帝内経』には、鍼を使って血を出す治療法が随所に見られるので、これが恐らく鍼の起源と考えられます。現在でも陶器を割り、その破片で血を出すという治療法が、中国の民間療法として残っています。
 こうして最初は石鍼を使っていたので、体内の奥へ鍼を刺入することなどできませんでした。日本でも難病のことを「薬石、効なし」と言います。「薬は判るけど、石とは何だろう?」と思われるでしょうが、この石鍼のことを指しています。
 そして経脈ラインが誕生しました。古代の木製経絡人形が発掘されましたが、それには現在の経絡より遥かに多いラインが描かれています。

 こうして鍼灸が誕生し、長い年月が過ぎました。すると中東からゾロアスター教が中国へ入ってきました。すべてを善悪など、二つのものが対立して発生するという考えです。現在の中国でもゾロアスター教は火祭りとして少数民族に残っており、日本へ渡って御盆の習慣になりました。
 こうして中東の宗教が、インド→ベトナム経由で中国へ入り、陰陽説が形成されてゆきました。そして中医(中国医学)理論として陰陽説が誕生しました。
 漢代の古墳から発掘された帛書(白絹の書物)には、陰陽説に基づいた経絡が記載されています。それには耳脈や歯脈、肩脈と記載されたりしていますが、少陽とか陽明などと陰陽を3に細分化した脈もあります。それは灸の本なので、こうした経脈ラインは、鍼ではなく、灸感から始まったと考えられます。
 まず3に分けるのは、易経から来たものです。まず陰陽があって、陰と陽が一緒になって3が生まれる。男女が一緒になって、子ができるようなものです。
 こうして手足の陰陽で、手が陰経と陽経、足が陰経と陽経の合計4本、この陰経と陽経が3つに分かれて陽明、太陽、少陽、陰も太陰、厥陰、少陰と分かれ、手に6本、足に6本で、合計12本の経脈となりました。これが陰陽説による経脈誕生です。

 再び長い時間が経ちました。
 その間に古代ギリシャでは自然哲学が誕生し、ターレスという哲学者が「物質は、すべて土・水・火・風の四元素から作られている」という四元素説を発表しました。またデモクリトスは、水が沸騰すると蒸気になるのを見て、「全ての物質は、微細な粒子から作られている」とし、それ以上に分けられない物質単位として「分子」という言葉を作りました。これが中国にわたって、気一元論と五行説になったのです。
 こうしたギリシャ哲学は、アリストテレスに支持され、形而上学としてアレクサンダーに伝えられました。
 そしてアレクサンダー大王は、エジプトやペルシャを征服すると、今度はインドへ向かったのです。
 当時の東方旅行記によると、インド人は「鼻のない民族だ」と記載してあります。
 これは中国留学していて判ったのですが、そこにネパール人のサンプがいました。彼は「最初に中国人を見たときは、彼らは鼻がない。なんとみっともない民族なんだ!」と思ったそうです。そして中国に慣れた頃、帰国して「ネパール人は、なんとみっともない民族なんだ! 顔に鼻しかない」と思ったそうです。
 つまり中東人から見れば、東洋人は「鼻のない民族」だったのです。だから現在のインドやネパールに住んでいる人達は、実はアジア人を滅ぼして移住したペルシャ人やギリシャ人だったのです。
 インドを征服した彼らは、ギリシャから分子論と四元素説を持ち込み、ペルシャ人は五芒星を持ち込みました。
 中国で「すべての物質は、気で作られている」と言ったのは鄒衍で、ついでに五行説も唱え始めたというのですが、恐らく彼がインドから持ち込んだ考え方でしょう。
 鄒衍がギリシャ哲学から学んだのは「すべての物質は、分子という微粒子からできているんだ」ということと、そして「世界中の物質は、土・水・火・風という元素が混ざりあってできているのであり、そうした元素から分子が作られている」という2つです。
 ところが「神聖な星」として、五芒星も入ってきました。四元素を五芒星に合わせるため、五元素説が誕生したのは、弁証法理論の産物でしょう。そこで土・水・火・風の四元素が、木・火・土・金・水という五行に入れ替わったのです。現在の中国医学でも「木は風を生じる」と言って、木と風を同類に考えています。この土・水・火・風(木)を眺めて、西方からアレクサンダーによって持ち込まれた青銅に驚いているうち、「四元素は四なのに、五芒星は五つ。これは元素のうち一つが抜け落ちているんじゃなかろうか? 四元素に一つが加われば、五芒星が完成する。その元素は応該、青銅でなければならない」と、中国語で考えたことでしょう。それが入るのは「土・水・火・風(木)」のうち土と水の間だ。ここで間に入れれば「土→金→水→風(木)→火」となる。これには生み出す関係があるが、それならば風と火が逆だ!
 そう考えて土・水の間に金を入れ、風と火を入れ替えた。当時の金とは青銅のことです。
 「土・水・火・風」より「木・火・土・金・水」のほうが、明らかに優れています。
 まず四元素では、水火の対立、そして土(地)と風(天)の対立という、対立が中心になっています。ところが五行説では「木と金・金と火・火と水・水と土・土と木」の対立関係になっています。さらに「木から火が生まれ、火が燃えると土になり、土から金(青銅)が生まれ、青銅には朝になると露(水)が着いている」という援助関係まで説明できます。
 こうして四元素説は、中国へ入って五行説になり、分子説は気学説となって、さらに完璧な理論となりました。こうして陰陽五行説が誕生したのです。

 まず陰陽説は、陰と陽の対立として見るので、月と太陽など、非常に受け入れやすい理論でした。それで陰陽説からは、八卦が誕生しました。
 問題は五行説です。こんなような複雑な理論が、一般庶民には必要ない。例えばジャンケンもグー・チョキ・パーの3つだから使いやすいわけで、これが5つあったら何やら判らんようになる。だから一般庶民には、受け入れられません。

 これが中国で広まったのは、当時の支配者に都合がよかったからです。
 中国の王朝は、最初は酋長が部族の中から優秀な一人を選び、その人を次の酋長にするようにしていました。
 そして中国人の先祖は、誰もが黄帝と信じ込んでいます。彼は、高齢になって昇天したとき、龍に乗って昇天したと言われており、そのため中国人は自分のことを「龍の子孫」と呼んだりします。
 哺乳類が爬虫類から生まれたりしないので伝説に過ぎないのですが、しばしば中国の伝説では王の特異性を強調するため、人間以外の生き物から生まれたことにしています。
 さて、この黄帝は、炎帝の跡を継いで中国人の先祖となったと言われています。
 黄帝は、炎帝と争ったのですが、炎とは火を表し、黄は黄土を指すので、火から土へと政権が移ったことを物語っています。
 そうした神話時代の政権交代は、現在の毛沢東まで続いてゆきます。
 しかし封建時代では、臣下が王の政権を簒奪し、自分が王になることを繰り返してきました。
 例えば日本では、将軍が代わっても天皇は代わらないという歴史がありました。つまり最初の王は、最後まで王だったのです。
 中国では、最初に禅譲といって、王の地位は次世代へと、自然に譲られたものでした。それを中国では生数と呼び、「木→火→土→金→水」と1から順に変化してゆきます。これは生み出す関係なので、五行の相生関係と呼びます。「あいおい」ではなく、「そうせい」と読みます。
 こうして円形に一周しますと、次に五芒星を使った支配関係へと変わります。これは「水→土→木→金→火」との移り変わりです。つまり王様が若死にしたり、毒殺されたりすれば、臣下が取って代わったり、反乱軍が取って代わって王になったりします。そうした下克上が、中国では「部下が王の座を奪ったりするのは、子が親を殺すようなもので、非常に悪いことだ」と考えられていました。だから臣下は、王を殺して自分が王になれず、子供が親を殺すこともなかったのです。

 しかし反乱軍は、王を倒して自分が王になりたい。そこで「王権神授説」ならぬ「王権天授説」が登場するのです。そして「天が、前の王に政治(まつりごと。つまり先祖供養)しろと命じた。しかし王は天の与えた命に背き、民衆に重税を科して、自分の欲望のままに振る舞うようになった。そこで天は私に『今の王を廃して、おまえが王になれ』と命じられた。だから私は前王を討ち、天の命ずるままに新王となる」と、こうした理屈を振り回して、勢力の衰えた前王を誅殺し、新たな王となって居座るのです。これを革命と呼びます。
 なぜ政権が変わることを革命と呼ぶのか? それは「王になれ」という、天の命令が前任者から変わるからです。革命の革は、変革や改革の意味で、改まることを言います。
 天とは、昔は先祖が居るところと考えられていました。それで古代中国では、高い山が信仰の対象となりました。それは高い山が、より天に近いので、先祖の言葉を受けやすいと考えられたからでした。
 つまり先祖を祭る役が、前の王から新王へと変わった。
 でも、ここで疑問が湧きます。前王が先祖供養をさぼることを、なぜ天は知っていながら、王座に就かせたのか? 天は、先のことも見通せないのか?

 王というのは先祖の族長で、部族のリーダーです。それに部族の一部が反抗して、政権を奪取する。誉められたことではありません。
 そこで「前の王は、火の徳を持っていた。しかし私は水の徳を持っている。火が横暴になったとき、水が火を消すのは自然の節理である。だから横暴になった火の王を倒し、水の徳を持った自分が王になるのは、天の命令である」という、五行の相尅理論を持ち出します。これが天命だと!
 つまり陰陽説は物事の関係を説明するのに役立ちますが、五行説は政権奪取の変遷を正当化するのに役立つのです。この理論は、下克上によって政権を奪った者には、非常に都合がいい。それで五行説を国が奨励し、「これに逆らうものは、今の王を認めないことと同じだ!」ということになりました。五行説があれば、臣下が政権を奪おうが、それは「子が親を殺す」ことには相当せず、自然な成り行きの摂理として片付けられるからです。道徳的にも、何の問題もない。
 こうして古代中国に「五行説に逆らうものは、王を否定するのと同じだ」という風潮が生まれ、これを積極的に取り入れた者は良しとされ、否定するものは悪とされました。
 ちょうどキリスト教が、江戸幕府や明治政府で禁止になったようなものです。人が「神の前で平等」ならば、将軍も天皇もないのですから。

 封建時代の中国で、五行説を否定することは、江戸時代や明治時代にキリスト教を信仰するようなもので、非常に困難でした。
 当然にして五行説は、鍼灸や漢方薬の世界にまで浸透するようになりました。五行説という形而上学は、否定すれば王の正当性を否定することになるので、こぞって取り込んだことは言うまでもありません。
 こうして世界の事象を五行に当てはめようとしました。例えば東西南北です。東は海が青いので、緑の木。南は熱いので、火。西は砂漠なので、白いから白金。北は寒いから、冷たい水。中央は黄土だから、土。
 「東に海があるから水。南は木が繁っているから木。西は土が露出しているから土。北は焚火しているから火。中央は文明が発達しているから金」という発想には、なぜか至りませんでした。そんなことを言えば、気違い扱いか死刑。国家騒乱罪になってしまうからです。

 こうして陰陽説を取り込んだ鍼灸治療は、さらに五行説も受け入れて、陰陽五行説となったのでありました。
 五行説は、王朝が倒れて共産党の新中国になるまで続きました。

 例えば「酒が五臓六腑に染みわたる」などと言いますが、それは五行説に基づいています。五臓とは「肺・心・肝・脾・腎」の五臓です。膵臓は何処へ行った? 六腑とは「胃・小腸・大腸・胆嚢・膀胱・三焦」の六つです。三焦とは何?
 これを五行に当てはめて、「肺(金)・心(火)・肝(木)・脾(土)・腎(水)」、「胃(土)・小腸(火)・大腸(金)・胆嚢(木)・膀胱(水)・三焦(火)」としています。そして色も分けられて「肺(白)・心(赤)・肝(緑)・脾(黄)・腎(黒)」、「胃(黄)・小腸(赤)・大腸(白)・胆嚢(緑)・膀胱(黒)・三焦(赤)」と決められています。
 内部が詰まった臓器を収納しておく蔵という意味で、肉づきを加えて臓。空っぽになったり物が入ったりする臓器を集まったり散ったりするという意味で府、肉づきを加えて腑。蔵には冷蔵庫とか収納する倉庫の意味があり、府には学府とか集まる意味があります。
 陰は冷たくて重い地面、陽は暖かくて軽い天空。だから詰まったものが陰で、空っぽならば陽。臓腑を陰陽に当てはめれば、中身が詰まった臓は陰、物が入ってきても空になることがあれば陽。このように陰陽で分け、さらに五行で細分化しますが、前記のとおり五行分類はかなりあやしい。例えば肺は白いから金、心臓は赤いから火、脾は黄色いから土、このあたりは納得できるとして、それでは腎臓と肝臓の色は、どっちも黒じゃないかと思うでしょう。ただ肝臓と胆嚢は「肝胆合い照らす」というほど関係が深く、胆嚢が緑色だから木に分類しただけ。膵臓は中国で「胰腺」と呼ばれ、胸腺と同じく臓と見做されていません。
 六腑は臓との関係で決められます。胆嚢は緑色なので文句なしに木、膀胱は水が入っているので水、ところが金、火、土を決めるのは大変。脾胃は消化機能の中心だから土。火と金が一番難しい。残っているのは小腸・大腸・三焦。三焦は、何なのか判らないので、小腸と大腸を決めなければならない。昔は、小腸から尿が作られて、大腸は排便すると考えられていました。つまり小腸と膀胱が繋がっており、臍の上辺りで小腸から水分が膀胱に流れると考えられていました。それで臍の上には、水分というツボがあります。そして高熱になると、発汗して尿量が減り、尿の色が濃くなるので、これは小腸が火に属すから高熱になると尿が赤くなるのだと考えました。こうした複雑な事情で小腸が火。大腸が金なのは、喘息症状が排便させると治まるため、肺と大腸が関係すると考えて金にしました。これは漢方薬の治験で、鍼灸とは関係ありません。
 このように関係の強いもの同士を組み合わせ、残りを関係の弱いもの同士で組み合わせて、こじつけ的要素をはらみながら中医の五行が決められていったのです。だから現代中国の鍼灸師は「陰陽は良いが、五行は悪い」と言う人が多いです。鍼灸と五行が、相いれないからです。
五臓六腑で、五臓は五行説ですが、六腑は陰陽説です。それは陰陽には‥と-があり、それが三つ組み合わさって卦ができているからです。陰陽では、奇数の五になるはずがありません。
 帛書では、手に五本の経脈、足に六本の経脈がありました。『内経』には「両陽が前で合わさって陽明となる……両陰が交わって厥陰となる」と書かれています。
 つまり太陽と少陽が合併して前に行き、陽明になったという意味です。陽明は、陽で明るいので、陽が強まっているのです。また太陰と少陰が重なって厥陰となるのは、厥は欠乏の意味ですから陰がなくなることを示しています。こうして陽から最大陽が生まれ、陰から最小陰が生まれたので、合計が六本になります。そして「胃・小腸・大腸・胆嚢・膀胱・三焦」が六腑です。
 そうすると「胃・小腸・大腸・胆嚢・膀胱は判るが、三焦とは何?」と疑問が出ます。古代の医学書として『内経』と『難経』がありますが、その『難経』には「三焦とは、名前はあるが、実体のない臓器である」と書かれています。そして「人体で最大の腑だ」ともあります。つまり架空の臓器に名前をつけたという、あまりにもアバウトな内容です。
ただし、この『難経』が日本では重要視されています。
 それでは『内経』には、どのように書かれているのでしょうか? 「上焦は霧のよう、中焦は漬物樽のよう、下焦は下水のよう」
 なるほど、暗示的に書かれていますが、少しは三焦の実体に迫っています。つまり三焦というのは上中下に分かれているから三焦であり、全体を一つにしたものと判ります。
 人体は3つの部位で区切られていると考えられていました。その仕切りが横隔膜と臍です。横隔膜は、きちんとした壁、そして臍は曖昧な区切りです。ある程度は判ってきました。すなわち「上焦は霧のよう」と表現されているのは横隔膜から上、「中焦は漬物樽のよう」と表現されているのが横隔膜の下で臍の上、「下焦は下水のよう」と表現されているのが臍の下です。この記載から推測すると、横隔膜の上には心臓と肺があります。しかし霧というのは心臓を指しているとは思えませんので、消去法で上焦は肺。横隔膜の下で臍の上が中焦ですが、そこには脾胃と肝臓があります。しかし「中焦は漬物樽のよう」なので、中にはキュウリや白菜などが詰まっていると考えられるので、脾と肝は消去され、残るのは胃。臍の下にあるのは膀胱なので、「下焦は下水のよう」に当てはまります。
 「上焦霧、中焦漚、下焦瀆」は「肺、胃、膀胱」で片がつきました。
 ほかに三焦についての記載は、「三焦水道」となっています。だから三焦とは水の通路なのです。「口から入った水が胃に入り、小腸から膀胱へと移行する」と、昔の人は考えたのです。そして膀胱の水は、一部が「命門の火」に暖められて蒸気になり、上の肺へと昇ってゆく。だから肺は霧のようで、その証拠は寒い日に息をハァーとすると、口から霧が出てくると考えていました。これが三焦水道という水の通路です。
 でも、ここで疑問があります。詰まったり空っぽになったりを繰り返すのが腑だ。それが「肺、胃、膀胱」ならば、確かに肺は空気が入ったり出たりする。胃も水穀(水と穀物)が入ったり出たりする。膀胱も尿が入ったり出たりする。これは一つずつの臓器であり、三焦などという臓器ではない。
 それでは三焦に関する記載を『内経』から探してみましょう。「三焦が発病すると、浮腫になる」とあります。つまり三焦が発病すると、むくむのです。
 現在では、三焦は皮下全体を指し、皮下に水が流れているから汗をかき、汗が出なければ三焦に水が溜って腫れると考えられています。つまり三焦は皮下全体、つまり五臓五腑を入れているのが三焦腑で、分ければ「肺、胃、膀胱」となり、合わせれば身体全体となる。だから有名無実の臓器という『難経』の記載も納得がゆくし、汗が出たり腫れたりするので、出入を繰り返す腑の性質にも当てはまるのです。
 このようにして五行の形而上学が組上がりました。
 診察法として、手首の橈骨動脈を五臓六腑に当てはめるというのもあります。『難経』に「中央が土、土から金が生まれるので、金は土の上にある。金から水が生まれるが、水は低きに流れるので、一番下に行く。水から木が育つので、木は水の上。木から火が生まれるので、火は木の上。火は陽の極まったものなので、再び下に落ちる」とあり、その記載を根拠に、六部定位の脈診をやり、五臓の状態を決めるのです。
 現在の中国では、脈は心臓の動きや血管の硬さ、血圧を診るためのもので、五臓六腑の状態を診るものではないとされています。
こうした形而上学が消えたのは、実際の治療と一致しなかったことも原因なのですが、主な理由は「王朝の変遷がなくなり、五行説を使わなくてもよくなった」ためです。

 さて、中国は陰陽五行説を日本に伝えたのですが、明朝→清朝→袁世凱→国民党政府→現代中国と変わりました。
 最後に登場したのが、中国の始皇帝ともくされる毛沢東です。始皇帝や毛沢東は絶大な力を持っていたので、誰も注意することができません。意見すれば、反動分子として処刑されてしまうからです。そこで「昔の書物には、あなたの行動は間違っていると書かれています」というように意見したのです。
 意見したのは人間ではないので、彼を死刑にするわけにゆきません。だから「自分の行動を否定するものは、間違った物だ。そんな物は燃やしてしまえ」ということになります。だから歴史上で焚書したのは、始皇帝、ヒットラー、毛沢東の3人だけです。
 ヒットラーは知りませんが、始皇帝と毛沢東は実用書には寛容でした。しかし一般の民衆は「本を持っていると危ないそうだ。燃やせ」ということになり、文化大革命で多くの書物が灰になりました。
 毛沢東は、医学や農業のような実用書にも、インチキな迷信が入り込んでいると主張しました。だから検証が必要だと。
 こうして文革期の書物は、毛沢東語録が引用されるとともに、陰陽五行説が消えました。
 現在の中国では、陰陽五行説は古代の形而上学として習うに過ぎません。そして解剖と統計学を重視して、比較対照試験によって鍼灸の効果を立証しようという動きになっています。しかし台湾は文革を経ていないので、現在でも陰陽五行説が用いられていますが、どうしても鍼灸が下火で、書物も日本のや中国のを出版しています。
 とりわけ朱漢章が小鍼刀を発表し、それが教科書に組み入れられたことから、中国の鍼は「筋肉の癒着を剥がす」ことが主眼になってきました。
そして小鍼刀や小刀鍼などが誕生し、「解剖的な癒着を剥がす」ことが鍼治療の中心となったために、鍼治療が筋肉治療へと理論面でも技術面でも近づいて、陰陽五行説は『中医基礎理論』など学校の授業で習うだけとなり、病院の鍼灸では「小鍼刀理論」が使用され、その理論は小鍼刀だけでなく、毫鍼理論としても取り入れられるようになりました。
 だから中国の鍼理論は、古代の陰陽五行説から、現代の小鍼刀理論へと移行したわけです。つまり政府が強制した五行理論から、解剖に基づいた小鍼刀理論へと、鍼理論が変わったわけです。だから最近の中国では「小鍼刀」の本が毎年何冊も出版され、かつての辨証鍼灸のような賑わいです。

 現代の日本では外国から鍼理論が入ってきたため、古代の陰陽五行理論、アメリカの穴位注射を起源とするトリガーポイント、文革期に起こった辨証法理論、1990年代ぐらいから始まった小鍼刀理論と、だいたい四つの流派が存在します。

 日本のなかでも流派が多いのが陰陽五行説に基づいた形而上学鍼法ですが、これは平安時代に「中国の政権変遷理論」である五行説を取り入れ、長い歴史を経てきたので、もっとも多くの流派があり、たいがいの日本の鍼灸は五行説の亜流です。次に入ってきたのが文革期に起こった辨証法、これは五行説を捨てた、陰陽経絡学説に基づく鍼灸といえるでしょう。そしてトリガーポイント、もともと痛む部位に麻酔薬を注射するトリガー注射が鍼に変化したもので、痛む部位に毫鍼を刺します。そして小鍼刀を中心とする現代中国鍼灸が最後に入ってきました。これは「なんでもあり鍼灸」と言えます。
 それまでの中国鍼灸は毫鍼を身体へ刺していたのですが、現代中国鍼灸は鍼を改造したり、頭に刺したりします。そうした頭鍼では大脳の機能分野に基づいて刺入し、癒着部分を剥がすために股関節や腱鞘部分へ刺入したりします。
 日本では、古来からの形而上学に基づいた五行鍼が最も多いため、「五行鍼灸」が主流で、その分派が最も多い。だから日本では中医辨証、トリガー、現代鍼灸に遭遇することは稀です。
 特に陰陽五行説は、すべての物を陰陽と五行に分類しますので、形而上学の鍼灸をやっている鍼灸院で治療を受けているときに、この食品は五行で何に属するのかなど、いろいろと質問してみると楽しいです。ほとんどの鍼灸院は、伝統鍼灸なので、こうしたことに詳しいです。陰陽は簡単で、左が陽で右が陰とか、血が陰で気が陽とか、有形が陰で無形が陽とかあります。こうしたものは証明したわけでもなく、このように決めたというだけのものです。
 中医辨証は漢方薬を併用しますので、辨証派の鍼灸院では漢方薬に強いため、治療を受けているときに漢方薬のことを尋ねてみるといいです。
 トリガーポイントは、どの筋肉が悪いのかを尋ねてみるといいです。
 現代中国鍼灸は、やはり筋肉や神経、血管などに詳しいので、やはり筋肉を尋ねてみるといいです。

 このなかでトリガーポイントは、痛む部分を経験的に把握します。しかしアメリカ発なので書籍が少なく、内臓痛や網膜の病変、眩暈や耳鳴などには対処できません。またアメリカ式鍼灸で治療している所も少ないです。
 古来からの陰陽五行説に基づいた鍼灸は、書籍が最も多いです。しかし歴史が長いため内容がバラバラで、さまざまな流派があります。
 中医辨証は、文革以降から1980年代までの鍼灸で、学校の教科書で一通り習うため、あまりバラツキがありません。しかしながら辨証を標榜しているようでも、実際は五行鍼だったりすることがあるため、なかには教科書通りでない人もいます。でも、それは辨証治療ではありません。1970~80年代に翻訳された本が多いので、かなりの量が絶版となっています。中国でも減少傾向にあります。
 現代中国鍼灸は、1985年以降に表舞台に立った鍼灸です。それまでは辨証鍼灸の補助として、頭鍼や腕踝鍼が紹介されていた程度です。それが小鍼刀理論の登場により、1993年頃から一躍脚光を浴びるようになりました。小鍼刀の作者である朱漢章は、2005年頃の秋に死にましたが、その理論と効果の素晴らしさから、従来の辨証鍼灸が縮小され、急激に小鍼刀理論が台頭するようになりました。とくに運動器疾患に優れた効果があります。また頭鍼、脊鍼なども完備しているので、脳卒中や内臓疾患にも強いのです。書籍は、現代鍼灸が最も多いです。しかし日本語に翻訳されていないため、中国語で読まなければならず、それがネックとなって日本では広まっていません。

 まとめ
 こうして鍼灸の歴史は、陰陽説から出発して、五行説を強制され、古代の鍼灸理論である「陰陽五行説」ができました。ただし鍼灸は、五行説を受け入れながらも、鍼の刺入感覚を伝導する通路として経絡学説を確立し、それが鍼灸治療の中心に据えられたため、治療としての鍼灸が生き残りました。経絡学説とは「気が病巣部に達する」ことです。つまり刺入感覚が病巣部へ達しなければ、効果がないという理論を確立しました。それで鍼灸が生き残ったのです。

 ながい年月が経ち、清代になって、御殿医から鍼灸が廃止されることになりました。西洋科学に五行説が負けたからです。阿片戦争、八カ国連合との戦争、日清戦争と続き、五行理論の中国は敗れ続けました。それで五行説ではいかんということになり、西洋医学に変わったのです。ここで中国では古い医学が、完全に民間へと潜ってしまいました。

 国民党と共産党の戦争が始まり、「安い、簡単、便利」な中国医学は、西洋医学のように多くの医療設備を持ち運ぶ必要がなく、再び脚光を浴びました。そして共産党が国民党に勝利し、中国伝統医学が見直されたのです。しかし毛沢東の文化大革命によって五行説が取り除かれ、陰陽経絡説を使った辨証法治療が登場しました。それによって鍼灸は、漢方薬の補助的治療法となりました。文化大革命は「新中国になって、すべてのことが進歩した」という前提なので、食糧生産が上がったとか、鍼灸の治癒率が上がったとか、数字によって示せというものでした。こうして統計による結果が要求されましたが、鍼灸においては評価基準が非常に甘く設定されており、評価基準そのものも不明だったのです。しかし「治癒、好転、無効」のデータを示すようになりました。

 1985年、中国の大学に鍼灸科が誕生しました。それまでの鍼灸は、漢方薬の添え物だったので、漢方薬を処方する辨証法を使って治療していたのです。しかし鍼灸科誕生によって、鍼灸は経絡学説を中心にすべきだという機運が起こり、まず経絡の客観化を目指す運動が始まりました。こうして外科の鍼灸が、内科の漢方から独立したのです。
 まず鍼治療の根拠である「経絡とは何か?」という問題について、人体を使って調査を繰り返し、第三平衡学説というのができました。それは「経絡の伝達速度は、神経より遅く、内分泌より速い」というものでした。これによって鍼灸は、陰陽五行説から脱却し、経絡学説を中心にして、「経絡とは何?」を解明しよう、そして鍼の作用メカニズムを明らかにしようという機運に変わりました。当時は、まだ辨証法鍼灸が支配的でした。
そうした経絡の解明と同時に、鍼灸の治療メカニズムを解明しようという動きも始まりました。そうなると陰陽五行説が、あとかたもなく吹き飛んだのです。

 1988年に張仁の『急症鍼灸』が出版されました。これは当時の臨床データを集め、「治癒、好転、無効」の割合を記載したものです。これが大きく鍼灸を変えました。それまでの鍼灸治療は、他の治療とは比較をしなかったのです。だが『急症鍼灸』は、各種の鍼灸治療法を比較した本だったのです。この本によって、一人の治療結果から、複数を治療した結果にを比較するように移行しました。こうした治療データを集めた書物は、雑誌としてはあったのですが、保存される書物となって刊行されたことは初めてだったのです。この記念すべき中国の本は、日本と台湾でも出版されましたが絶版となり、谷口書店から第2版が『急病鍼灸学』として復活しています。こうして中国の鍼灸は、治療同どうしを比較対照する方向へと変わってゆきました。つまり陰陽五行説や経絡学説から、治療効果の対照試験を中心とする理論なき鍼灸へと変化しました。

 1992年、朱漢章が『小鍼刀療法』という薄い本を発表すると、中国鍼灸界に大きな衝撃が走りました。それまでは鍼の効果など、古代の経絡学説を使ってしか説明できなかったのです。それを彼は「筋肉癒着や骨棘形成が痛みの原因である」とし、その癒着を剥がしたり、骨棘を削るための鍼を発明しました。それが小鍼刀です。
 この理論は、当初は重視されていませんでした。しかし彼の作った癒着を剥がすという鍼は、挙がらない五十肩を一回の治療で挙がるようにするなど、いろいろと驚異的な効果があったので、鍼灸界からも注目されました。出版されてすぐに北京では「小鍼刀学習班」が作られ、鍼灸師が小鍼刀を学ぶようになったのです。
 私も1995年に北京へ行ったのですが、すでに「小鍼刀学習班」は解散してしまい、日中友好病院で教えてもらう約束をしていたのですが、その主任医師が肝炎にかかり、習えなくなってしまいました。縁がないといえばそれまでですが、私に小鍼刀をやるなという天の導きかもしれません。小鍼刀とは挫刺の一種で、線維を切るものです。
 それから1998年頃までは、辨証鍼灸や統計鍼灸、経絡の研究などの書籍が混在していました。しかし2000年を前にして、急激に「小鍼刀」の書籍が増えていったのです。その理由は、やはり理論にあったのではありません。理論は、その効果によって証明されていましたから。
 その理由は大腿骨頭壊死です。それまで大腿骨頭壊死は、手術して人工関節に置換するしか方法がないと思われていました。ところが小鍼刀によって、大腿骨頭壊死が治ってしまったのです。それは従来の鍼治療では考えられない出来事でした。
 こうした運動器疾患に対する効果により、小鍼刀が教科書に昇格し、大腿骨頭壊死を治すことは、鍼灸界の常識になってしまったのです。

 現在の鍼灸では、古典として陰陽五行説を習いますが、治療は違います。
 治療は比較試験による統計、そして理論は小鍼刀理論に変化しています。そして現在の小鍼刀では、癒着を剥がしたり、骨棘を削ったりだけでなく、筋肉を強力に緩めるという治療作用があるとしています。この小鍼刀理論を中心に据え、統計比較に基づく鍼灸が、現代中国鍼灸なのです。

 小鍼刀理論
 小鍼刀理論とは、「痛みを感じるのは知覚神経である」とする理論です。つまり骨棘ができて神経を圧迫したり、あるいは筋肉が正常部位でない骨と付着したり、筋肉が萎縮すると、その筋肉内を通っている知覚神経を圧迫したり牽引し、動かしたときに痛みを生じるという理論です。それを解決する方法として、骨棘を削って平らにする、正常部位でない骨との癒着部分を剥がす、筋肉の収縮を緩めるなどの手段を挙げており、それが可能な鍼を作りました。こうして小鍼刀が誕生しましたが、その理論は鍼治療にも取り入れられました。現在の状況は以上ですが、今後は鍼治療と内視鏡手術が近づいて行くのではないかという気がしています。

 具体的な分類
  「私は、どういった病気でしょうか?」と尋ねたとき、返ってきた答えによって、自分が何の鍼灸治療を受けているのか分かります。

 ○五行鍼灸:一般に脈を診て、それを五行の五臓に基づいて虚実を決めます。だから「私は何なのでしょうか?」と尋ねると、五臓を頭に付けた虚実で答えます。例えば「脾虚」とか「腎虚」です。
 ○陰陽鍼灸:脈を診たり、舌を診たりして、情報量を増やします。一般に四診合参と呼び、「舌を見る、病歴を尋ねる、声や匂いを調べる、脈を診る」などによって得た情報を分析し、総合判断します。この場合、陰陽・虚実・表裏・寒熱に分類するので、八綱辨証と呼びます。ですから五行と違って、「脾陽虚」とか「脾陰虚」、「腎陰虚」とか「腎陽虚」だけでなく、「腎精虚」とか「腎気虚」などのように、2文字ではなく、3文字となっています。この差は、情報量を多く収集することから生まれると思われます。
 ○トリガー鍼灸:圧痛点治療なので、どこの部位に痛みがあるかによって刺鍼点を決定します。痛みの治療なので、「腎虚」や「腎精虚」のように症状名を付けることはありません。
 ○現代鍼灸:辨証ではなく、辨病治療なので、診断名は現代医学と同じです。また現代医学の診断に基づいて治療するので、血液検査やMRI画像などの結果も参考にします。現代鍼灸の特徴は、辨証と辨病を併用することなので、検査をしている余裕がなければ辨証して治療し、検査結果が判明すれば疾患名に基づいて治療します。

 以上の4種のうち、トリガー鍼灸は内臓疾患などが治療できませんが、他の3種は内臓疾患にも鍼灸で対処できるということになっています。それぞれ特徴がありますが、一般的に鍼治療は急性に効果があり、灸治療は慢性に効果があるとされています。それでは急性の場合、何回の治療をやったら効果が現れるのか?
 一般に3回です。3回治療しても全く症状に変化がない場合、その流派は当該疾患を治すことが苦手なのです。
 かえって痛みが増したり、痛みが移動したりする場合もありますが、それは治る流れへ向かったということで、1~2回ほど痛みが増す状態が続いた後に、徐々に痛みが消えてゆきます。痛みが増す現象も変化の一つなので、「3回治療しても変化がない」うちには含まれません。
 治療して痛みが増すケースは、急性の場合にはありません。たいがいは何年も痛みが続いており、「以前は相当痛かったが、現在では痛みが少なくなった」という場合に起こります。だから長年の患いや、重症過ぎるケースでは、治療したあと痛みが悪化する状況が1~2回続きます。それが日頃感じている痛みだったり、昔感じていた痛みであれば、悪化しているのではなく、好転反応だということです。
 例えば坐骨神経痛の場合、鍼治療すれば足の痛みは軽くなるのですが、逆に痛みを感じなかった腰が痛くなってきます。順序として、腰痛が先にあり、それから足が痛くなって坐骨神経痛になったのであり、治る場合のフィルムの逆回転のようなもので、足の痛みが消えたが、これまで痛くなかった腰が痛くなってきます。本人としては、足が痛かったことなど忘れているため、「坐骨神経痛の治療したら、逆に腰が痛くなってきた」というようなことになります。これは自然な現象です。
 坐骨神経痛の進行過程は緩慢ですが、鍼治療の治癒スピードは「手到病除」というほど速いのです。だから徐々に腰痛が発生するのではなく、急激に腰痛が発生するのです。それで戻りが、ちょうど腰痛発生期に来れば腰痛が起きますが、その時期は直ちに通り過ぎるので、徐々に腰痛が消えて、8回も治療する頃には完全になくなっています。

     北京堂鍼灸